ラタン研究特集:「異分野研究会」での発表を元に

 2014年5月19日に「異分野研究会」の一環として、「ラタン研究会」を開催しました。本科研プロジェクトに、ラタンについて深い知見を持つメンバーが多い点を活かして、企画したものです。久々の「異分野研究会」で、しかも平日午前からの開催でしたが、多くのメンバーが参加し、大変内容の濃い研究交流ができました。とくに今回は、東カリマンタンでのフィールド調査を重ねてきた東京大学の寺内大左氏をゲスト・スピーカーとしてお招きしたことで、サラワクとカリマンタンとの相違や共通点なども意識させられ、より広い視野からの研究の可能性を見出すこともできました。
 ラタンは、東南アジア各地にみられる重要な森林資源で、ボルネオの地元先住民にとっては、日常的に利用される身 近な植物であると同時に、古くから域内外に流通する重要な商品でもありました。その意味で、植物生態学的な研究や、 先住民の生業研究という部分だけでなく、東南アジア海域世界の交易史という観点から見ても重要な商品であり、流通や取引の過程で生じる地域間関係・民族間関係の面でも興味深い考察対象になります。また、専門の違いを越えて、分野横断的な共同調査や意見交換を行うことができるトピックとして、本プロジェクトではラタン研究を重要視しています。
 今回の研究会では、生態学、人類学、歴史学、農業経済学等の専門家からラタンに関する話題提供をしていただいた後、市川哲氏からは、ツバメの巣や動物胃石など、他の森林産物との比較を通じた有益なコメントを受けました。コメントの後の総合討論も含めて、全体として活発な議論を交わすことできました。
 
 以下の発表要旨は、各発表者にご執筆いただきました。
 発表要旨に続く質疑応答の内容は、鮫島・祖田を中心に参加メンバーたちでまとめたものです。発言者の名前も書いていますが、発言者が特定できなかったものは「フロア」と記載しています。

【日時】2014 年5月19日(月)11:00~
【場所】京都大学 東南アジア研究所 東棟107
【発表者・講演内容】
小泉 都
「ボルネオのラタンの植物分類学的、民族植物学的整理」

竹内 やよい(国立環境研究所)
「ビンツル・クムナ川流域のプラウのラタンの多様性と工芸品への利用」

加藤 裕美(京都大学)
「ラタン資源へのアクセスの変化とラタン加工品についての知識・技術の形成」

寺内 大左(東京大学)
「焼畑民の生計戦略におけるラタン生産の位置づけ
 ―東カリマンタン州西クタイ県ベシ村を事例として」


小林 篤史(政策研究大学院大学)
「東南アジアを中心としたラタン流通の統計的考察」

市川 哲(立教大学)
「コメント:ラタン交易と非木材林産物交易の比較
 ―サラワクにおけるツバメの巣およびヤマアラシの胃石取引を中心として」




ボルネオのラタンの植物分類学的、 民族植物学的整理:小泉 都
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 ラタンとは、旧世界(アジア、アフリカ) の熱帯・亜熱帯でみられるツル性のヤシ科植物の総称である。 Calamoideae 亜科のうちの12 属が含まれる。これらの属のなかにはツルにならない種も含まれるが、文献では他のラタンとともに扱われることが多い。”Genera Palmarum” (Dransfield et al 2008) によると、ツルにならない種も含めて549 種が知られている。また、”Rattans of Borneo”(Dransfield & Patel 2005) によると、ボルネオには140 種が存在する。
 ラタンはよく利用される植物で、ボルネオの各言語で名前がついているが、民俗名と種の対応ははっきりしていない部分も多い。このため、民俗名を利用してラタンの調査を行う場合、対象地域・言語における民俗名と種の対応を調べることが望ましい。しかし、形態の特殊性や種数の多さなどから、ラタンの標本採集や同定を躊躇する研究者も多いと思われる。そこで、ラタンの形態的特徴を説明したうえで、”The Rattans of Sarawak” (Dransfield 1992)の検索表や”Rattans of Borneo” (Dransfield & Patel 2005) のインタラクティブ・キーを使って同定演習を行った。
 同定演習を行った後、ハーバリウム(植物標本館) の利用についても説明した。ハーバリウム訪問の前には担当者に利用目的等を連絡して許可を得なければならない。ハーバリウムには標本を乾燥させるための設備があり、研究の協力体制があるのならこれを利用させてもらえる。また有料の同定を依頼できる場合もある(標本は返却される)。自分で同定を行う場合は、凍結等の殺虫処理を施した後、標本の持ち込みが許される。ハーバリウムの標本は元の状態を変えないように丁寧に扱わなければならない。

参考文献
Dransfield, J.
 1992. The rattans of Sarawak. Royal Botanic Gardens Kew & Sarawak Forest
 Department.
Dransfield, J. and Patel, M.
 2005. Rattans of Borneo: an interactive key. Royal Botanic Gardens, Kew.
 (CD-ROM)
Dransfield, J., U hl, N., Asmussen, C., Baker, W., Harley, M., and Lewis, C.
 2008. Genera Palmarum: evolution and classification of the palms.
 Royal Botanic Gardens, Kew.


質疑応答
・(祖田)インタラクティブ・キーによる同定が可能な”Rattans of Borneo” のCD-ROM はどこで入手可能なのか。(小泉)アマゾン等で誰でも購入できる。ただ、Windows 8では使用できないという欠点がある。
・(竹内)クチンのハーバリウムに行けばラタンのことは分かるのか。(小泉)クチンにはラタンの専門家というのはいない。
・(フロア)加工され、製品になったラタンから、種の同定は可能か。流通の段階では茎のみしか入手できない。ラタンを茎から同定できるか。(小泉)代表的なものなら、よく知っている人なら分かるかもしれない。(鮫島)DNA が抽出できれば同定も不可能ではない。(竹内)茎からもDNA は抽出できるはず。(鮫島)ただし、業者にDNA 抽出を頼んだとしてもAGTC の配列が分かるだけで、ラタン全種の配列データベースがないと、どれと同じなのかどうかの判断ができない。(竹内)Dransfield らによる系統関係の研究はあって、属レベルくらいまでは分かるが、全部をカバーしているわけではない。
・(寺内)民俗名についてもう少し教えてほしい。民俗名の違いは民族によって利用の仕方が異なることと関連があるのか。(竹内)ジュラロン川流域では、プナンの方がイバンよりも細かく分けて命名していた。(鮫島)実用性・有用性があるかどうかということと命名とは必ずしも合致しない。プナンについては、知っていることがステータスという側面もある。(祖田)特にプナンは、どんなに小さな小川にも名前を付けるし、何か出来事があった場所にもそれにちなんだ地名を付けると言われる。植物だけでない命名へのこだわりを持つように思われる。(石川)それに加えて、ランドスケープへの愛着tawai というものが非常に強い。
・(フロア)カリマンタンにおけるラタンの研究としてどういうものがあるか。(小泉)たとえば、渡辺名月さん[元鹿児島大学] が詳しい研究をしている。Web 等でも論文検索するとヒットしてくるので、参照されたい。
・(祖田)ラタンは栽培可能な植物なのか。(寺内)可能である。カリマンタンでは多くの村人が栽培している。

写真1 : 東プナンの女性によるラタン(Ceratolobus discolor
Becc.) の採集風景。
同定に役立つ葉や葉鞘はその場で捨てられ、茎だけが持ち帰られる。
(撮影: 小泉 都)

写真1 : 東プナンの女性によるラタン(Ceratolobus discolor Becc.) の採集風景。 同定に役立つ葉や葉鞘はその場で捨てられ、茎だけが持ち帰られる。 (撮影: 小泉 都)

写真2: "Rattan of Borneo: an interactive key” (CD-ROM)のカバー

写真2: ”Rattan of Borneo: an interactive key” (CD-ROM)のカバー



ビンツル・クムナ川流域のプラウの ラタンの多様性と工芸品への利用:竹内 やよい
(国立環境研究所)
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 ボルネオ島の地域社会がもつプラウは、林産物採集の場として人々が焼畑農業地の中に残してきた森である。人は日常的に、水源、狩猟、食糧、日用品の原材料の調達場として利用しており、元来より人の生活にとっても密接な森林であった。プラウの生物多様性が人の生活に与えるサービスとしては、動物の狩猟、野菜や果物、薬草、木材の供給、ラタンなどの工芸品の材料の採集が挙げられる。この中でもラタンは、生物学的に種類が多様(種多様性)、利用種数や頻度が高い、日用品や伝統工芸品の原材料である、という点から、生物多様性に直接的に関係し、且つ供給・文化的サービスの両方を与える材料であるといえる。そこで、ラタンを材料として、プラウに生育する種多様性と、人々の利用について明らかにすることを目的とした。

写真①:背負籠 写真②:持ち手つき籠 写真③:箕 写真④:トレイ 写真⑤:蝿帳 写真⑥:ゴザ( 上はブンバン製、下がラタン製)

写真①:背負籠 写真②:持ち手つき籠 写真③:箕 写真④:トレイ 写真⑤:蝿帳 写真⑥:ゴザ( 上はブンバン製、下がラタン製)

写真⑦:魚とりの仕掛け 写真⑧:魚籠 写真⑨:種籾入れ(蒔くときに使用) 写真⑩:籾米籠 写真⑪:米櫃 写真⑫:皿入(魔除けに使用)

写真⑦:魚とりの仕掛け 写真⑧:魚籠 写真⑨:種籾入れ(蒔くときに使用) 写真⑩:籾米籠 写真⑪:米櫃 写真⑫:皿入(魔除けに使用)

 まず、プラウに生育するラタンの種類を明らかにするために、樹木植生調査用に設置した50 x 50 mのプロット内のラタンの種と個体の調査を行った。今年(2014年) の初めに、ジュラロン川流域のRh. Malek, Rh. Jusong, Rh. Ugalの持つプラウの中に、計10個の植生プロットを設置した。その中に出現した種をすべて記録した。現地名で、全部で29種類のラタンが見つかった(表1)。29種のうち、15種類はラタン工芸品に利用される種であった。ラタン材として市場で取引がある商業種wi segaは、すべてのプロットに出現したわけではなかった。また同じく商業種であるwi semambuも出現しなかった。これらは、稀な種であることが示唆された。

表1 : ラタンの現地名(イバン名) と出現したプロットの数
(全10 プロット中)。
赤字は工芸品への利用が可能な種。

表1 : ラタンの現地名(イバン名) と出現したプロットの数 (全10 プロット中)。 赤字は工芸品への利用が可能な種。

 一方で、ラタンの利用について調査を行うために、カゴなどラタンを用いた日用品の制作が盛んな村を対象として、ラタンの採集について予備的な聞き取り調査を行った。対象としたのはジュラロン川流域のRh. Aying, Rh. Udau、ビンツル市街に近いRh. Saka(ビンツルから50km)、Rh. Mujah( ビンツルから15km) である。ジュラロン川流域では、ラタンを村の周りの二次林やプラウから採集しており、全部で10-15種ほど利用。一方で、Rh. Sakaでは、採集は村の近くの二次林やプラウから行うものの、主に利用する種数は数種に限られていた。Rh. Mujahでは採集頻度はジュラロン川流域に比べて低く、また利用種数も数種であった。さらにビンツルで既に加工されたラタンを購入して利用する世帯がほとんどであった。村の人のラタン利用は、村周辺の植生、都市へのアクセスのしやすさなどに大きく影響を受けることが考えられた。


プラウまたはプラウ・ガラウ。用材確保、墓場林、精神的な場として焼畑農業地の中にパッチ状に残存する森林。焼畑に不適切な急斜面、尾根沿い、岩がちな沢筋であるため残されていることが多い。(百瀬(2006) 理戦85:146-155)

質疑応答
・(加藤) ラタン工芸品のデザインや編み方で、新しいものも見られるが、どこから編み方を教わって来るのか。(竹内) まだよく分かっていないが、村の人に聞くと、自分で編み方を考えたという。最近はプラスチックを使ったりすることもある。
・(寺内) なぜ、この地域ではラタンの栽培をしないのか。種(たね)は簡単に入手できるはずだし、植えた後は管理をする必要もないので、楽に栽培できるはずだが。(鮫島)サラワクでは森林局がいろいろ指導しても、それが定着しないままに終わることが多い。その点は、カリマンタンとは異なる。
・(寺内)工場のラタンはどこから納入されているのか。(竹内)仲買人が持ち込む。仲買人がどこから仕入れてくるのかは不明である。工場で聞いたが詳しく教えてもらえなかった。言えないところから仕入れている可能性はある。
・(石川ほか)ロングハウスではラタンを売っているというのを見たことがない。(鮫島)Tinjar川流域では見たことがある。(加藤・祖田)前回調査の時にBakun Roadでラタンを運ぶトラックを見たが、それも我々にとってはほぼ初めてのこと。めったに見ない。(鮫島)伐採キャンプでmandol(現場監督)とかが集めていたりするのかもしれない。
・(佐久間)ラタンは歴史的にも重要な森林産物であった。たとえばRajang川流域は、植民地期以前から世界のラタン生産の拠点であった。そういう点も興味深いが、ラタンの取引が、なぜ今見られないのかが分からない。
・(祖田)ジュラロン川流域のプラウにおいて、伐採活動や道路建設の動きがあるとのことだったが、それらは村人たちの合意のもとなのか。(竹内)例えばRh. Ugalに関して言えば、水源地からの水の パイプ交換を条件に村人が承認したという。 ・(祖田)ゴザの模様で伝統的なものや代々継承されるものはあるのか。あるいは編み手の女性のステータスなどはあるのか。(竹内)編み方というのはいくつかあるらしい。それがステータスに関係するかどうかは分からないが、とくにゴザは技術が必要で編める人は限られる。



ラタン資源へのアクセスの変化とラタン加工品についての知識・技術の形成:加藤 裕美
(京都大学 白眉センター/ 東南アジア研究所)
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 ラタンはサラワクにおいて、サゴヤシ、野生ゴム(グッタペルカやジュルトンなど)、ツバメの巣、沈香、龍脳、アンチモンとともに、19~20世紀における重要な交易品の一つであった。先行研究において、ラタンは植物分類学、民族植物学、経済学、人類学的視点に基づいて、様々な研究がなされており、特に1990年以降においては、森林保全や管理の面から、非木材林産物の利用価値に着目した研究が進められてきた。本発表では、サラワクにおいて近年みられる道路網の発達によって、ラタンへのアクセスがどのように変化しているのかを取り上げた。また、後半部分では、ラタン加工品を作製する女性の知識や技術の継承にどのような特徴があるのか、その要因を考察した。
 はじめに、本科研プロジェクトの研究対象であるタタウ川、クムナ川両流域における、ラタン(丸籐rattan cane)をはじめとした非木材林産物の交易の歴史についてまとめた。まずタタウ川では、上流域と中流域で取り扱う林産物、交易圏において異なる特徴がみられる。中流域では上流域と比較して移住してきた年代が比較的古いため、より多くの林産物が交易品として扱われていた。交易圏についても中流域はタタウを中心とする交易圏であるのに対し、上流域は隣りの流域であるラジャン川にあるカピットを中心とした交易圏であった。クムナ川上流においては、タタウ川と比較してさらに 多くの交易品が取り扱われていた。その背景には交易ネットワークが発達しており、バルイ川上流域に住むプナンなどから、希少な交易品を入手することが可能であったことがあげ られる。ラタン(丸籐)についてはタタウ川、クムナ川両流域において1940年代~1970年代まで重要な交易品であったが、1980年代以降は次第に交易が行われなくなっていった。
 つぎに、ブラガに居住するシハンを対象に、ラタン資源へのアクセスがどのように変化しているのかを発表した。かつては、河川沿いの原生林や孤立林、古い二次林で採集していたが、道路網が発達した1990年代後半以降は道路沿いのラタン資源へのアクセスが集中している。採集範囲は河川沿いの集落と比較して、道路沿いの集落の方がより短い距離で可能であることを指摘した。また、ラタン加工品の作製についても河川沿いの集落と比較して、道路沿いの集落の方により多くの編み手が住んでおり、より多くのラタン加工品を生産していた。この背景には、道路沿いのラタン資源へのアクセスが容易なことだけではなく、彼らの生活基盤が道路沿いの集落へと移りつつあることが挙げられるであろう。
 最後にラタン加工品作成に対する女性の知識や技術の継承について発表を行った。日常生活に欠かせないバスケットやマットは、30代以上の女性は全員作成可能であるのに対し、20代以下の女性では編める技術に大きな個人差がみられた。また、ラタン加工品のなかでもフレームのないバスケットは、年代を問わず個人差がみられた。ラタン加工品を作製し始めた年齢は、年々遅くなっているものの、販売し始めた年齢はどの年代においても結婚や出産などライフスタイルの変化をきっかけとしていた。現在、20代以下の女性は学校教育を受け始めた世代であり、就学や就労などのために森へ入る機会が減少している。今後、結婚や出産などを機にラタン加工品の作製や販売を始める可能性もあるが、それも夫の仕事場所や子供の就学状況にも左右されるであ ろう。ラタンをはじめとする野生植物に対する知識や、ラタン加工品作成の技術は、女性のライフスタイルの変化とともに大きく変わりつつある。

写真1 : 軒先で夜ラタンを割いて加工品を作る女性たち
(2008年6 月カクスにて加藤撮影)

写真1 : 軒先で夜ラタンを割いて加工品を作る女性たち (2008年6 月カクスにて加藤撮影)

写真2 : ブラガ市場で売られるシハンが作成したラタン加工品
(バスケット、マット、箒、食用のラタンの若芽など)
(2008年7 月ブラガ市場にて加藤撮影)

写真2 : ブラガ市場で売られるシハンが作成したラタン加工品 (バスケット、マット、箒、食用のラタンの若芽など) (2008年7 月ブラガ市場にて加藤撮影)


質疑応答
・(寺内)道路で資源へのアクセスが変わったというだけでなく、市場へのアクセスも容易になり、買い手が村のラタン製品にアクセスしやすくなったということはないのか。そのような需要の増加によって採集地が奥地化していったのではないか。(加藤) ラタン製品の売買は大きな河川沿いにある市場で行われているため、道路の発達によって買い手がラタン製品にアクセスしやすくなったり需要が増加したとは言い難い。また、採集地が必ずしも奥地化しているわけではなく、河川沿いの資源から道路沿いの資源へとシフトしているといえる。現在は、道路沿いでラタンが簡単に手に入りやすいので、その分生産量も増えているといえる。
・(寺内)ラタン採集は収入面でどれくらいの重要性を持つのか。(加藤)女性にとっては非常に重要な収入である。世帯単位で言っても、月平均200~300RMとなっている。Belagaの町での賃金労働が一ヶ月に600RM程度であることを考えると、女性が得られる収入としては重要な収入源と言える。
・(市川)儀礼的なものや、贈答用の特別な編み方などはあるのか。また、贈答というのは日常的・お土産的なものか、何か特別な機会に渡すものか。(加藤) シハンはそもそもあまり儀礼をおこなわないので儀礼用のラタン製品というものはない。贈答用だからといって特別な編み方があるというよりは、販売用と同じぐらいクオリティの高いものを贈答用として編んでいる。
・(祖田)ラタン製品の販売という点で、プナンとの競合関係はないのか。(加藤)Belagaの町では、プナンもラタン製品を売っている。プナンの製品はデザインの込み入った ものもある。プナンの作る製品は実用品というよりも、ツーリストが好むような小さめの製品、柔らかいものなどが中心で、一方、シハンの製品は周辺のロングハウス住民に需要のある、農作業に使うような実用的なものが多い。シハンの作るものは、そもそも都市やツーリズム・セクターでの需要が少ないものなので、プナンの売っているものとはマーケットが異なる。
・(佐久間)染料は使うのか。(加藤)今は染料を使うことは少なく、プラスチックを混ぜて編み込んだりしている。昔は土に埋めて黒く染色したりしていた。
・(小林)なぜ丸籐採集が終わったのか。(加藤)はっきりした因果関係はわからないが、村の人の話によると、資源が枯渇したこと、伐採が入ってきて採集が困難になったこと、価格が低下したこと、プラスチックが入ってきたことなどが影響していると思われる。(小林)しかし、統計を見ていると、1980年代から丸籐の価格が高騰している。華人が採集の現場にまで入ってきて、ローカルの人々がはじかれたということはないのか。(加藤)そのあたりはよくわからないが、華人が採集の現場に入ってきて、ローカルの人々がはじかれたということは、ブラガの周辺では聞いたことはない。丸籐交易の終焉期には、村から相当離れた森まで採集に行っていたので、徐々に資源が枯渇していったことは考えら れる。ブラガの周辺では1990年代以降は丸籐交易がおこなわれなくなったが、採集地がサラワクのより奥地に移っていった可能性も考えられる。実際にJelalong 川やAnap 川流域ではブラガよりも早くにラタンの丸籐交易は終息していた。(鮫島)伐採会社の関係者・監督者が人を使ってロタンを採集している可能性があるのではないか。(加藤)自分は聞いたことがないが、ひょっとすると伐採会社の現場など、現地の村人が関わらない形で採集している可能性は、あるかもしれない。



焼畑民の生計戦略におけるラタン生産の位置づけ―
―東カリマンタン州西クタイ県ベシ村を事例として:寺内 大左

(東京大学 大学院総合文化研究科)
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 インドネシアの中でも東カリマンタン州はラタン生産が盛んな地域である。しかも、他地域では天然のラタンが採集されているのに対して、そこでは焼畑先住民によってラタンが栽培されている。研究会では東カリマンタン州西クタイ県・ベシ村を事例に焼畑民(ブヌア・ダヤック人)のラタン生産(栽培・加工)の現状、生計におけるラタン生産の位置づけの変遷と現状を発表した。
 ラタン生産は焼畑の陸稲播種時にラタンの種を植栽するところから始まる。ラタンは焼畑跡地の植生回復に合わせて成長する。ラタン園の管理として雑草木の刈り払いや巻枯らしが行われる。8~10年後に1回目の収穫が開始される。1回目の収穫以降、同じ株から成長するラタンは3~5年に一度のペースで収穫することができる。収穫されたラタンは村の仲買人に出荷され、村人の現金収入になる。村の女性が仲買人によって雇用され、彼女たちによって川でラタンのブラッシング作業が行われる。その後、ラタンは仲買人によって硫黄で薫蒸され、乾燥、パッキングされて、村外の中規模仲買人に出荷される。上の生産方法はセガ(sega) と呼ばれるラタンの生産方法である。セガラタンの他にも様々な種類のラタンが存在し、その種の植物的特性に合わせた形で生産されている。
 ラタンに注目してベシ村村人資源利用の歴史を確認する。1965年までは焼畑とラタン生産によって生活が営まれてきた。1965 ~ 70 年にかけては丸太生産、ダマー ル生産が盛んに行われ、ラタン生産の重要性は低くなった。1970年代、80年代はタイ、半島マレーシア、フィリピンの未加工ラタン輸出禁止策が影響し、インドネシアの未加工ラタンの軒先価格が向上し、村人は盛んにラタン生産を行うようになる。80 年代後半ではラタン生産の収入で食糧・必要物資を購入する村人も出現していた。そして、インドネシアでも一連の未製品ラタン・ラタン製品の輸出禁止策、ラタン製のむしろの生産割当制度が施行されるようになった。また、安価な竹製のむしろが日本市場に流入することで、東カリマンタン産ラタンの主な出荷先であった南カリマンタン州のラタン加工産業は壊滅状態に陥った。それが影響し、1990年代、2000年代はラタンの軒先価格が低迷することになった。2000年以降、ゴムの軒先価格が向上し、村人達は焼畑跡地にラタンではなく、ゴムノキを植栽するようになった。
 1970年代、80年代においてはラタン生産は儲かる資源利用として位置付けられていた。では、現在はどのように生活の中に位置づけられているのだろうか?村人はゴム生産と比較してラタン生産は労働に対する収益性が低いと判断していた。一方、2008年の世界金融危機時にもラタンの軒先価格は安定しており、しかも必要時に必要量の収穫が可能であることから、安定した収入源であるとも認識していた。また、様々な民具の材料となっており、生活用具の自給のためにも重要視していた。この収入の安定性、日常生活における用途の多様さという点ではゴム生産よりもラタン生産が優れており、現在価格の高いゴム生産は収入向上のため、ラタン生産は収入安定、生活用具の自給のためと異なる位置づけがなされ、相互補完的に組み合わせて実践されていた。

写真1 : ラタンの収穫 (2010年、寺内撮影、ベシ村)

写真1 : ラタンの収穫 (2010年、寺内撮影、ベシ村)

写真2 : 村内の仲買人に出荷されるラタン
(2010年、寺内撮影、ベシ村)

写真2 : 村内の仲買人に出荷されるラタン (2010年、寺内撮影、ベシ村)


質疑応答
・(祖田)ラタンは長期保存できるのか。価格の良い時に仲買人に売っているということはないのか。(石川)コショウの場合は収穫物の保管が何年も可能なので、価格が良い時に出荷するということが可能である。アブラヤシではそれができない。(寺内)ラタンを収穫後、森の中に放置していると腐食で変色し、価格が低くなるということはある。ただ、硫黄で薫蒸し、乾燥させると、かなり保存がきく。なので、仲買人が保管し、価格の良い時に中規模仲買人に売るということはある。ゴムの場合は、村人自身が保管していることが ある。ゴムは1本のゴムノキから1日に採取できる樹液の量に限りがあるので、少しずつためておいて、値上がりした時に売るということはある。(石川ほか)村人の収穫のタイミングと村の仲買人の思惑とのギャップ、さらに村の仲買人と中規模仲買人の思惑とギャップは面白いかもしれない。
・(鮫島)労働交換の慣習はないのか。(寺内)焼畑の作業ではある。特に播種の時に労働交換を行っていたが、現在では賃金を払って雇うことが多くなっている。お金を持っている人にとっては、人の畑に行って労働提供するより、労賃を払う方が手っ取り早い。ラタン生産においてはブトゥサー(Betusa’)と呼ばれる雇用・収穫労働が存在する。ラタン園の所有者が村人を労働者として雇用し、労働者がラタンを収穫し、収穫物を所有者と労働者で折半(50:50)するという労働形態。
・(竹内)2009 年のエルニーニョで、この地域に森林火災は及ばなかったのか。(寺内)この村周辺ではなかった。
・(加藤)男女別の収穫・労働の違いはあるのか。(寺内)segaの場合は重いので男性が中心だが、pulut merah やpulut putihは細くて重量も軽いので女性が収穫に参加することも多い。編むのは女性が中心。
・(加藤)ラタンの採集は違法行為ではないのか。(寺内)輸出が規制されただけで、村での収穫や加工・販売が禁止されているわけではない。
・(佐久間)森林産物への課税の方法はどうなっているのか。たとえば、サラワクのツバメ巣採取などでは、森林局がライセンス料を徴収するが、製品・販売に対する課税というのはない。(寺内)政府からライセンスという形でラタン収穫の許可が付与されているのか、収穫物に対する税金が課されているのか、分からない。後日確認したい。ただ、村人がラタンの収穫に際して税金を払うということは行われていない。
・(祖田)村人たちは販売先の仲買人をどう選ぶのか。(寺内)親族や仲間、古い付き合いなどで選んでいる。村に2人いる仲買人の両方に売るということはあまりない。
・(石川)ゴムと米とラタンの親和性はあるのか。あるいは、収穫サイクルがマッチしていたりするのか。(寺内)コメの収穫後にゴムを植えるということはある。ラタンも同じである。焼畑と焼畑休林を利用してゴム園・ラタン園が造成され、収穫されているので、焼畑との親和性が高い土地利用方法だと思う。
・(石川)ラタン園として何年間生産が可能なのか。(寺内)50年以上可能な場合もある。ただ、ラタン園の中で毎年、ラタンが天然更新するので、そのラタン園のラタンが全て50年生のものであるということではない。
・(祖田)どれくらいの規模でラタン園が造成されているのか。(寺内)焼畑跡地をどれだけラタン園にするかは, その人がどれくらいラタンの種を集めることができるかによる。焼畑跡地 の全てにラタンの種を播種できる場合もあれば、一部に播種して、残りは何も植えない休閑林になることもある。だいたい4x4mの間隔でラタンの種が播種されている。
・(祖田)1ha からどれくらいのラタンを収穫することができるのか。(寺内)村人によっていうことがまちまちである(後日、データを確認すると、2.5~5t/haの収穫量であることが分かった)。



東南アジアを中心としたラタン流通の 統計的考察:小林 篤史(政策研究大学院大学)
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 本報告の目的は、1980年代以降の東南アジア3地域(マレーシア・サラワク、インドネシア、シンガポール)を中心としたラタン流通の構造と変化を数量的に捕捉することである。その際に、各国の貿易統計からラタン輸出入に関するデータを抽出して用いた。なお、本報告が対象とするラタンとは、家具な どに製品化される以前の未加工ラタンである。
 第一に、マレーシア・サラワクのラタン流通である。1980年代前半のラタンの輸出量はおよそ500トンで安定していたが、1987年以降にその規模は2,500トンまで増加した。その背景には、同時期にインドネシアからの未加工ラタンの輸出規制による、国際的なラタン価格の上昇(1トン当たり200リンギットから3,000リンギットへ) があったと推察される。基本的にサラワクからのラタン輸出の仕向け先はシンガポールが大きな比率を占めた。
 第二に、東南アジアで最大のラタン産出国であるインドネシアである。1980年の輸出量は8万トン近くあり、その多くが中国(香港含む)とシンガポールに向かっていた。しかしその後、政府による未加工ラタンの輸出規制もあり、1990年には輸出量は1千トン程度まで縮小した。その後、2000年代には3万トンまでラタン輸出量は回復し、その輸出価格も今日まで安定した水準を維持している。その背 景には、インドネシア国内のラタン需要がある程度存在するため、価格は国際的な変動に左右されないという要因があると予想される。
 第三に、東南アジアのラタン中継港として機能するシンガポールである。1980年代から90年代、シンガポールはマレーシアとインドネシアからラタンを輸入し、それを中国、台湾、イタリア、日本など 世界各地に再輸出する中継港であった。輸出入規模は2万~3万トンであった。2000年代に入ると、シンガポールのラタン貿易は3,000~6,000トンに縮小し、輸出先は中国、インド、エジプト、パキスタンなどに集中するようになった。
 1980年代以降、東南アジアのラタン流入においてはインドネシアが最大の生産・輸出国の地位を維持しており、特に2000年代以降は中国への直輸出を確立しながら、安定した輸出規模と価格水準を維持したことが分かった。一方、1980~90年代まではラタン流通の中継港として機能したシンガポールの地位は、インドネシアの直輸出拡大とともに低落の傾向にあるといえる。しかし、東南アジ アからみて西方のインドや中東への輸出には、中継港としてのシンガポールの重要性は高く、ラタン輸出に必要なインフラや流通ネットワークを有するシンガポールの優位は、未だ消滅していないことも示唆される。今後は流通に限らず、生産者から消費者までを含めたミクロレベルの分析が求められるだろう。

質疑応答
・(祖田)中国、香港には直接輸出が増えているが、西(インド、中東方面)へ向かうラタンはいまだにシンガポール経由が多いのはなぜか。(小林) マラッカ海峡を通るルートはまだシンガポールが重 要な中継地になっているということかもしれない。タンカーなどの大型船を使う輸送は、港の整備状況や荷降ろしの作業等で何らかの制約が働くのかもしれない。
・(鮫島)なぜバンジャルマシンなどの東・南カリマンタンから輸出されていないのか。(寺内)今回の発表は未加工・半加工のラタンの輸出入のデータを対象としていたが、インドネシアではそのような製品化されていないラタンの輸出は1980年代後半に禁止され、90年に入ってから輸出禁止から輸出課税や輸出量制限に政策が転換された。このような政策はラタンの加工産業の育成を目的としており、1980年代後半以降ラタン製品の輸出が増えていると思われる。1980年代後半までは東カリマンタンにおいて未加工ラタンの需要が高く、東カリマンタン産未加工ラタンが南カリマンタン州のバンジャルマシンで製品化され、それが輸出されていたと思われる。1990年代にバンジャルマシンのラタン加工産業が壊滅してからは、東カリマンタン産の未加工ラタンは、スラバヤやチレボンに出荷され、製品化されて、他国に輸出されているようだ。また小林氏の発表では、未加工・半加工のラタンの輸出先として中国・香港などのシェアが大きく、先進国向けは少なかったが、製品の輸出先としては日本・欧米などが多く、中国などは少ない。(小林)ラタン製品の輸出入データについてもう少し探す努力をする必要がある。
・(寺内)インドネシア政府のラタン輸出に関わる法令の詳細や最近の状況はちょっとわからない。東京大学の井上真研究室でラタンのvalue chainに関する修士論文を書いた荒川祐太郎氏がいるので、彼に聞けばわかるかもしれない。
・(竹内)フィリピンが統計上で現れてこないのはなぜか。(小林)詳しいことは分からないが、フィリピンの公式貿易統計では、ラタンの輸出が小規模にとどまることを確認している。(竹内)ミンダナオあたりからマレーシアやインドネシアに入っている可能性はある。
・(石川)非木材森林産物(NTFP)で植民地期からずっと続いている商品というのは、ラタンくらいではないだろうか。(小林)代替可能性の有無に関係するかもしれない。(寺内) しかし、ラタンに ついても、竹製品で一定程度は代用可能かもしれない。(鮫島) マットなどは代替可能だが、他の編むものなどは不可能だろう。
・(鮫島)なぜインドネシアのラタンは、周辺国と比べて価格が安定しているのか。(寺内)インドネシアの国内需要が大きいという理由が考えられる。国内で350,000トンの未加工ラタンが必要とされ ていると政府機関が公表している。


コメント: ラタン交易と非木材林産物 交易の比較― ―サラワクにおけるツバメの巣および ヤマアラシの胃石取引を中心として:市川 哲(立教大学 観光学部)
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 ボルネオ諸社会で行われてきた非木材森林産物交易の特徴には様々な歴史的・地理的なバリエーションがある。だが本科研プロジェクトのテーマと関連させて考えた場合、熱帯バイオマス社会における人々の生業と交易、という問題は無視できないと思われる。熱帯バイオマス社会が扱ってきた森林産物の中でも、特に非木材林産物に限定した場合、それらの獲得・加工・流通・販売には様々なパターンが見られる。従来はこのような取引は商品連鎖(commodity chain)という概念で表現されることが多かった。だがDaniel Chew が本ニューズレター英語版第7 号(日本語版では第12 号) のツバメの巣取引に関する論文で指摘したように、実際の取引関係は多様な主体と多様な取引方法が絡み合っているため、単線的なイメージをもたらす「商品連鎖」(commodity chain) よりも、「商品網」(commodity web)という表現を用いる方が適切であると思われる。ボルネオにおける非木材林産物取引の商品網の中におけるラタン取引の特徴を考察するために、研究会では ツバメの巣の取引とヤマアラシの胃石の取引について紹介し、それらをラタン取引と比較しながらコメントした。
 サラワクでは2000 年代以降、ファーム・ハウスやバード・ハウスと呼ばれる建築物にアナツバメを呼び寄せ、その中に営巣させることにより、安定的な巣の入手が可能になった。いわば「洞窟での採集」から「ファーム・ハウスでの採集」へ、というツバメの巣の採集方法の変化が生じているのである。現在のサラワクにおけるツバメの巣取引は、自然科学的な知識に基づく新たな技術の導入により、森林産物の交易パターンが変化した事例として捉えることが可能だと思われる。

写真1:クチンの店舗でパッケージ化され販売されているツバメの巣
(撮影: 市川 哲)

写真1:クチンの店舗でパッケージ化され販売されているツバメの巣 (撮影: 市川 哲)

写真2 :ファーム・ハウスで採られたツバメの巣(撮影: 市川 哲)

写真2 :ファーム・ハウスで採られたツバメの巣 (撮影: 市川 哲)

 
 ヤマアラシの胃石の取引も変化しつつある。現時点では限定的な情報に留まるが、サラワク各地でのアブラヤシ・プランテーションの拡大により、一部の野生動物の狩猟数は減少したが、アブラヤシの実を食べにくるヤマアラシの狩猟数は増加し、結果的にヤマアラシの胃石の獲得量も増加したのである。この変化についての実証的なデータはまだ十分とはいえない。だが何人かの先住民や華人商人から、かつてはヤマアラシの胃石よりもリーフ・モンキーの胃石の取引の方が多かったが、現在では逆転したという話を聞いた。これは、森林伐採により熱帯雨林内に住むサルの狩猟数が減ったが、逆にアブラヤシ・プランテーション内でも狩猟できるヤマアラシの数は増加したことを示唆していると思われる。現在のサラワクにおけるヤマアラシの胃石取引の特徴は、熱帯バイオマス社会の利用方法やランドスケープの変化により、森林産物の交易パターンが変化した事 例として捉えることが可能である。
 ではツバメの巣やヤマアラシの胃石と比較した場合、ラタン交易の特徴はどうであろうか?研究会では各種の非木材林産物交易の特徴の違いという観点から各発表に対し、以下のコメントをした。小泉発表では、実例を挙げながらラタンの種の同定方法や、資料の作成方法について報告していた。発表では、ラタンの種の同定は、かなりシステマティックになっており、「初心者向け」であると述べられていた。小泉発表のような特定の分野のノウハウに関する報告は、本科研プロジェクトの長所の一部ともいえるのではないか。本科研プロジェクトでは学際的研究や文理融合的研究が目指されている。だがそれだけではなく、本科研プロジェクトの一番の収穫は、共同「研究」だけでなく、共 同「調査」をすることにあると思われる。これは2010年度、2011年度に開催され多数のメンバーが参加した合同調査だけでなく、その後のテーマごとの調査においても、少数ではあるが複数の研究者が同じ地域で共同して現地調査することを指しており、実際にそこで得られた収穫は多い。そのため、この共同調査による異分野の研究者の交流をさらに促進する場合は、共同「調査」だけでなく、小泉発表のような共同「学習」も必要なのかもしれない。

写真3 : バラム川流域の都市マルディでヤマアラシの胃石を
取引する華人商人  (撮影: 市川 哲)

写真3 : バラム川流域の都市マルディでヤマアラシの胃石を取引する華人商人 (撮影: 市川 哲)

写真4 :ヤマアラシの胃石 (撮影: 市川 哲)

写真4 :ヤマアラシの胃石 (撮影: 市川 哲)


 竹内発表ではジュラロン川流域のプラウの生物多様性を、ラタンを事例とすることにより分析していた。これに対し、ラタンをはじめとする森林産物は以前からプラウで採集されていたのであろうか、そしてこの地域の非木材林産物交易が低調になってから、プラウの生物多様性が増加したのであろうか、というコメントをした。また竹内発表では、華人のラタンの精製や取引についても報告されていたが、同時にラタンは現地の人々も利用することが述べられていた。そのため、ラタンの販売や精製における華人の役割は大きいが、必ずしも中国文化圏向けの商品という訳ではない点に注目するべきかも しれないというコメントをした。
 加藤発表はジュラロン川流域およびバルイ川流域の交易圏の地域差や歴史的背景、および先住民シハンの道路沿いのロングハウスに居住することによるラタンへのアクセスや使用方法について報告していた。さらに加藤発表では、調査地ではラタン製品はグローバル・マーケットへの商品というよりも、カヤン等の他の民族集団への販売や、自家用や贈与用というローカルな脈絡で使用されていることも報告されていた。そのため、竹内発表とも共通するが、ラタンの交易はサラワクにおける森林産物の商品網の中にも、域外向けと、域内向けという異なるレベルが存在するように思われるというコメン トをした。
 寺内発表でとりあげられた東カリマンタンの事例に対しては、サラワクにおける非木材林産物や手工芸品等に関する技術や知識の多くはインドネシアからもたらされる、という点についてコメントした。例えば現在のサラワクでは、アナツバメをハウスに呼び寄せる技術や、生け捕りにしたヤマアラシを飼育し胃石の獲得を試みる、といった手法等、多くの非木材林産物に関する技術や知識はインドネシアからもたらされた、あるいはインドネシアの方が先行している、と説明される。そのため、ラタンに代表される非木材林産物の交易について調査研究する場合は、それぞれの地域における森林産物のルートや商品そのものを研究するだけでなく、商品の獲得や取引、精製、販売等に関する知識や技術の伝播や学習過程も視野に入れるべきかもしれないというコメントをした。
 小林発表は、19 世紀から現在に至るまでのマレーシア、シンガポール、インドネシアの各種の貿易統計を利用することにより、ラタン取引を数量的に報告していた。発表の中でも触れられていたが、各種の統計は分類方法等で相違点がある。そのため、現代の統計資料で議論できる、あるいは、すべきテーマは何であろうか、というコメントをした。例えば報告の中でも取り上げられていたが、19世紀や20世紀初頭のSarawak GazetteSarawak Government Gazette を利用した調査とは異なり、現在の貿易統計を利用すると、サラワクやシンガポールを越え、ビルマや中東、インド等も分析や考察の対象となる等、分析の規模も対象も増大する。また、発表の中ではサラワクのラタン貿易は、インドネシアの動向に左右されるとのことが報告されていたが、実はこれは寺内報告の部分で触れたように、多くのサラワクの非木材森林産物に共通しているのかもしれない、というコメントをした。



総合討論
・(加藤)ジュラロン川流域では、昔はどこからラタンを取っていたのか。(竹内)プラウだけでなく、どこでも採っていたと思われる。(石川)この地域にイバンが来る前は焼畑も盛んでなかっただろうから、どこにでもあったと思われる。
・(寺内)ラタンは域内での需要もあった商品で、ツバメの巣や動物胃石のような完全な外部向けの商品とは異なる。国際的な商品のweb やchainとローカルのものを分けて考える必要があるかもしれない。
・(寺内)ラタンの編み方に関して、インターマリッジを介した技術の伝播はあったのか。(加藤)インターマリッジを介した技術の伝播はよくみられる。例えばシハンの村ではブカタンから婚入してき た女性が編んでいるanyam bekatanという編み方を他の女性が真似して製作している。他にも女性同士で人の編み方を真似し合うのはよく見られる。(鮫島)ラタンにせよ刀作りにせよ、焼畑民が狩猟採集民に技術を教えて、それが狩猟採集民の特産品になっていったというものは多い。カヤンやクニャが、プナンやシハンにアウトソーシングしていると考えてもよいだろう。(市川)その意味では、商品の取引はいろいろなところで複雑に絡み合ったwebの状態になっている。それらのプロセスを描くことができればおもしろいだろう。
・(石川)コモディティという言葉を付けてしまうと、面白くなくなる。それよりもアパデュライのようにsocial history of thingsのように、そもそもコモディティになる前の段階も含めたモノ研究をするほうが面白い。
・(鮫島)カリマンタン側は、ラタン栽培だけでなく、セゴンsengonの植林など、サラワクよりも先に試したり、技術を開発したりする。サラワクに入ってくる知識や技術は、すべてインドネシアからという感じがする。(寺内)セゴンについては、東カリマンタン州西クタイ県林業局のあっせんがあって、ベシ村の村人たちもよく分からないけど、試しに植えてみたりしている。焼畑跡地に植えられており、セゴンは他の雑草木より成長が早く、除草作業を行わなくても優占樹種になることができる。セゴンは焼畑跡地の植生回復に合わせて成長し、焼畑と焼畑休閑林を利用したセゴン林業はゴムノキやラタンと同じような土地利用なのかもしれない。その他、ブヌア社会には焼畑跡地にシンプックンという、いろいろなものが混在して植えられている林が造成される。そこに新しいものを試しに植えたりする。西クタイ県に存在しなかったゴムノキもそのシンプックンの中に植栽され、ゴムの価格が高くなることで、シンプックンの中のゴムノキの種(たね) が使用されて、現在ゴム園が村に広がっている。アブラヤシについても、ココヤシと同様に新芽を食べられるかもしれないと思って植えたりする。それが後で儲かったりすることもあれば、放置されることもある。焼畑後の休閑地に植えることが多いので、焼畑サイクルとマッチした、ある意味、融通の利く土地利用が行われている。新しい商品作物・樹木を積極的に導入できるのはこのような焼畑システムに基づく土地利用方法があるからではないだろうか。(鮫島)焼畑サイクルや環境条件は同じなので、サラワクの場合は、たとえば過疎によって、いろいろ試すような人が街に出て行ってしまっているなどの社会的な背景が重要なのかもしれない。(寺内)いろいろ試すというのは、人口密度も関係しているかもしれない。カリマンタンは奥地に行っても人間が大勢いる。村の外から来る人も多い。(鮫島)サラワクは奥地に行けば過疎状態である。(祖田)カリマンタンではトランスミグラシで入ってきた人がいろいろ試すということではないのか。(寺内)そういうわけでもない。村の外からいろんな人がやってきていろんなことを試したりするが、トランスミグラシのような政策的な人口移動が関わっているというわけではない。たとえば、ベシ村ではバンジルカップという小川の増水期を利用した村人による木材伐採が活発だった時、中央カリマンタンから多くの人がやってきた。その後、そのままベシ村にいついた人も多い。現在、石炭企業の補償金が獲得でいるということで、ベシ村上流部の資源利用に村外の人も関与している。ベシ村に限らず、河川奥地の資源の豊富な村に人々が集まってくるという現象がある。
・(寺内)ツバメの巣やヤマアラシの胃石と比較してラタンはどのような特徴があるのかを考えると、ラタンは胃石やツバメの巣と違って、現地の需要がある分、域内の社会関係の形成に大きく影響しているかもしれない。(小林)域内での需要があるというのは確かに大きいと思われる。その点は他のNTFPとは異なるかもしれない。(石川)昔からずっと続いている商品として、例えばブラチャン(オキアミやエビを発酵させて作る調味料) なども挙げられる。ラタンにしてもそうだが、需要の趨勢によって資源利用は変わるが、変わらず利用され続ける資源もある。そういった資源は女性が生産に深く関与しているのではないか。こうした商品の生産や流通をジェンダーという視点から見ることで、面白い議論になるかもしれない。
・(小林)ラタンの国際貿易は1980年代以降に大きく拡大している。そこでは、商品の価格だけでなく、主体が変化している可能性もある。ネットワークの変化もあったかもしれない。そうした転換点がどういう意味を持つのか、50年とか100年のスパンで見る必要があるかもしれない。
・(竹内)ラタンの研究というのは、学際的研究に向いていると言える。この科研プロジェクトの素材としても面白い。「バイオマス」というと資源量が多いアブラヤシやアカシアが連想されやすいが、ラタン研究を通して、ボルネオはhighbiomassだけではなく、high biodiversityを持った社会としても位置づけることができる。またラタンはボルネオにもともとあった種であることが、アブラヤシや アカシアとは異なる。high biodiversity社会という観点から調査してみてはどうか。

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