熱帯バイオマス社会における華人コミュニティの特徴に関する覚書: クムナ・ジュラロン水系の調査から

熱帯バイオマス社会における華人コミュニティの特徴に関する覚書: クムナ・ジュラロン水系の調査から

市川 哲 (立教大学 観光学部)


はじめに

 本稿はマレーシア、サラワク州の河川上流域の華人コミュニティの特徴を、熱帯バイオマス社会における多民族状況という環境の中に位置づけて理解することを目的とする。この問題の理解のために、本稿ではサラワクの河川上流域における自然環境の中で華人がいかにしていかなる生業を営んできたのか、そして特に先住民との交流・通婚・ビジネスを通じていかにして自然環境と関わってきたのか、それにより彼ら彼女らのコミュニティをいかにして形作ってきたのか、という問題を調査・分析する必要があることについて議論する。それにより、「自然環境利用」と「先住民との社会関係」という観点から、熱帯バイオマス社会における華人社会の特徴の理解に関する覚書的な考察を行ってみたい。

 本稿が採り上げるサラワク州には、西マレーシアの華人を対象としてきた先行研究が等閑視してきた特徴を持つ華人コミュニティが小規模ながら存在する。特にサラワク内陸部の河川上流域の華人は、西マレーシアとは異なる自然環境や多民族状況の中で数世代にわたり居住し、各種の生業に従事してきた。そのため本稿はこのサラワク特有の環境の中における華人コミュニティの多様性の一端を、ビントゥル省のクムナ・ジュラロン水系の三つの都市の華人社会を採り上げ、簡潔にではあるがその特徴を紹介することにより考察することを試みる。

サラワクの華人社会の特徴と変容

 華人はサラワクの民族集団の中では第二位の人口規模を誇るものの、圧倒的に人口が多い西マレーシアの華人社会と比較した場合、サラワクを含む東マレーシアの華人社会はマレーシア華人社会全体の中では周辺的な存在として位置付けられがちである。サラワクにおける華人社会を対象とした先行研究の多くはブルック家による統治下での移住史や経済活動、各種社団の構成等をテーマとすることが多かった(e.g. Chin 1980, Kiu 1997, Lockerd 2003)。西マレーシアとは異なる多民族状況の下で華人がイバンやビダユ、オラン・ウル、マレーといった先住民との関係に言及する研究もあるが(e.g. Fidler 1978, King 1993, Ooi 1997, Lockerd 2003)、その多くは断片的な報告に留まっており、それがサラワクの華人コミュニティをいかに特徴付けているのかに関しては十分に明らかにされてこなかったように思われる。これに対し、T’ien(1997)やChew(1990)、Fong(2008)による業績は歴史的な背景や当該地域の民族状況や生業形態に注目することにより、サラワクにおける華人社会の特徴を把握しようとした試みとして参考にするべき研究である。特にChew(1990, 2000)は19世紀から20世紀初頭にかけてのサラワクにおける華人の移住史を、河川流域の先住民と華人との森林産物の交易と、域外への輸出、ブルック王家による河川上流域の砦の建設等に伴う安定化の下での移住、といった観点から明らかにした点で、現在のサラワクにおける華人社会の背景を理解する上で示唆に富む研究である。またFong(2008)はバラム川流域の華人社会の歴史について報告しているが、彼のように特定の都市の華人社会ではなく、特定の河川流域に点在する複数の華人コミュニティの変遷過程の調査という手法も、この地域の華人社会の特徴を理解するためには参考になると思われる。

 サラワクにおける華人の移住と定住の歴史は、19世紀から20世紀中頃に至るまでのサラワク内陸部における移動手段および初期の華人の経済活動と密接な関係を持っている。伝統的にサラワクでは河川流域に先住民のロングハウスが建てられ、川の合流点にパサールが建設され、船による移動により、上流と下流、ロングハウスとパサール、先住民コミュニティと華人社会という異なる空間が結ばれる、というのが基本的な交易パターンであった。先住民はテツボクやラタン、香木、グタペルカやダマール等の各種樹脂、エンカバンの実、犀角や熊の胆、サイチョウ等各種の動物の角や毛皮や内臓、獣肉、ベゾアールストーン、ツバメの巣等、外部社会で珍重される森林産物を収集してきた。華人はそれらの仲買人として先住民と交流することが多かったが、河川上流域の方がこれら森林産物の交易には地理的に都合がよかったのだと思われる。そのため華人はブルック家の統治初期から比較的河川上流域にも移住していたようである。筆者がこれまでサラワク各地で行ってきた現地の華人のファミリー・ヒストリー調査からも、断片的な情報に留まるものの、「河川下流域の都市への到来・定住→中流域への移動・定住→上流域への移動・定住」という、いわゆる「次第に上流に向かう移住」という「初めに上流に向かい、その後次第に下流に向かい定住する」という逆の流れが観察された(市川 2010)。

 先住民との間の森林産物の取引は変遷を遂げながら現在までも形を変えて継続するが、第二次世界大戦後は次第に低調になる。かつて河川流域の先住民はボートによるバータートレードのみならず、商品の購入や行政手続き、病院での治療、子供の就学等により河川上流域のパサールを定期的に訪れていたため、これらのパサールに居住する華人にもビジネスチャンスがあった。1960年代以降も下流から上流に移住する華人も存在した。特にサラワクにおける北カリマンタン共産党のゲリラ活動が盛んな時期には、夜間外出禁止令や都市部での華人の社会経済活動への制限などにより、新たなビジネスチャンスを求め、下流域から上流域の小規模なパサールへと移り住む華人(特にシブ出身の福州系華人)が存在したようである。だが同時に、1960年代以降はサラワク各地で森林伐採が盛んになり、森林部や河川流域の各民族の社会も伐採企業での就労やそれに関連する生業が重要性を増した時期でもある。さらに近年ではアブラヤシ・プランテーションの一般化により、プランテーション会社での労働や、現地住民のアブラヤシ・スモール・ホルダーによる活動も主要な経済活動となってきている。

 第二次世界大戦後の森林伐採の隆盛後も河川を交通手段とする生活は続くが、各種交通インフラの整備、特に内陸部における伐採道路の建設により、サラワク内陸部の交通手段は次第に河川中心から陸路中心へと変化した。ロッギング・ロードやプランテーション内部の道路、政府によって建設された舗装道路を用いることにより、もはや河川を利用せずとも陸路で下流や沿岸部の大都市に直接行けるようになったのである。それにより内陸部のビジネスチャンスは相対的に減少し、それに伴って次第に上流域のパサールの華人人口も減少するようになった。かつての河川上流域では一部の華人の中に「向山地・向上流移動」が見られたのだとすれば、現在は「向都市・向幹線道路移動」が顕著になってきたと言えるのではないだろうか。

 サラワクに限らずマレーシアの多くの地域では、地方都市や新村、遠隔地から大都市に就労・進学した人々が、春節や清明節等の特別の時期に帰村(balik kampung)することが多いが、サラワク各地の河川上流域の華人コミュニティの中にも同様の現象が見られる。このようなサラワク華人の中には、特別な祭礼日に大都市にある家屋に集まってくる人々がいるだけでなく、かつては上流域のパサールの家屋に安置していた位牌を、大都市に住む他の家族成員の家屋に移したり、さらには上流域に設置した祖先の墓を掘り返し、遺骨を下流の大都市の華人墓地に埋葬し直したりする人々も出てくるようになった。そのため、サラワクに来た第一世代がかつて住んでいた上流のパサールには、その後の世代は清明節やクリスマス等の特別な時期にも必ずしも戻らなくなるという現象も生じるようになった。

 次にこのような河川流域における華人の社会史とその特徴の理解の一端として、クムナ・ジュラロン水系の華人が居住する主要な都市である、ビントゥル(Bintulu)、スバオ(Subauh)、トゥバオ(Tubau)の華人の生活を点描してみたい(地図1参照)。

地図1:クムナ・ジュラロン水系地図

地図1:クムナ・ジュラロン水系地図



ビントゥル(Bintulu)の華人社会概況

 ビントゥルはクムナ川河口付近の人口約20万人のサラワク第四位の都市である。ビントゥルに居住する華人たちの説明からは、ビントゥルに到来した初期の華人は潮州系だったようでありであり、19世紀末に現在でもビントゥルの旧市街に存在する大伯公廟を建設し社会活動の中心としたとのことである。1960年代以降になるとシブ、サリケイ、ビンタンゴール等の他の都市からビントゥルに福州系華人が到来し人口を増加させるようになった。華人住民が増えた現在のビントゥル市街地には、潮州公会や福州公会、福建公会、広東公会等の同郷会館のみならず、華人墓地や華語学校等が存在する。さらに近年はインドネシア(特に西カリマンタン州のポンティアナクやシンカワン)から華人系労働者が到来している。ビントゥルではサラワクの他地域と同様、商店やフードコート等でインドネシア人労働者が働いているのを見かけるのが珍しくないが、そうしたインドネシア人労働者の中にはこれらインドネシア華人も含まれている。(写真1、2)
写真1:ビントゥル福建公会 写真2:ビントゥル華人墓地
 1960年代までビントゥルは小規模な都市であったが、かつての中国からの直接の移民のみならず、現在ではサラワクの他地域、およびインドネシアからのニューカマーの到来によりビントゥルの華人人口は増加している。さらにビントゥルはこの地域の森林伐採企業や天然ガス開発、工業団地といった経済活動の中心地であるだけでなく、歴史的にもクムナ・ジュラロン水系の森林産物の集積地であり、かつては水運会社も存在した。また現在では幹線道路や舗装道路・伐採道路を通じ、内陸部のコミュニティとも陸路で結ばれ、クムナ・ジュラロン水系および周辺地域の華人の経済活動のみならず社会活動の中心地となっている。水運のみならず、陸路によっても内陸部やサラワク他地域と結ばれたビントゥルは、新たに流入する華人を絶えず呼び寄せているのである。


スバオ(Sebauh)の華人社会概況

 スバオはビントゥルからクムナ川を遡行した地点にある都市であり、Sebauh sub-districtの中心地である。スバオにおける初期の華人はビントゥルと同様、潮州系であり、第二次世界大戦前から戦後にかけクムナ川流域の先住民(イバンやカヤン、プナン(Punan))との森林産物交易に従事した。ビントゥルからクムナ川を遡ったところにあるスバオは、その周辺に先住民のロングハウスがいくつかあるため、戦前から居住する華人たちがボートやエンジン付きの船でロングハウスを訪問することにより森林産物交易に従事してきた。さらに60年代になるとサラワク他地域から福州系華人も到来し、スバオに定着し各種の経済活動に従事するようになる。スバオはクムナ・ジュラロン水系の他の都市や小規模パサールと同様、その成立期から60年代に至るまでは森林産物交易の拠点の一つであり、そうした経済活動を中心として各地から華人が到来し、コミュニティを形成していたようである。

 だが筆者が基盤Sメンバーとともに2010年にスバオを訪問した際には、そのような経済活動はほとんど行われていなかった。現在のスバオにおける主要な経済は、観察した限りではスバオや周辺の住民を対象とした小売業や卸売業であるようだ。現在のスバオでもサラワクの伝統的な交易活動であった森林産物取引は他地域と同様、低調になっているようである。(写真3、4)
写真3:スバオ遠景 写真4:スバオショップハウス
 スバオには華人墓地が存在し現在も使用される。また当地の華人によって拿督公(Nadugong)の廟も建設されており、華人の宗教活動の中心となっている。これら宗教組織や墓地の存在は、スバオにおける華人コミュニティの規模と定着を意味しているのだと思われる。(写真5)
写真5:スバオ拿督公廟
 ただしスバオにはビントゥルと異なり、同郷会館や宗親会は存在しない。スバオの華人系住民が同郷会館や宗親会に参加したい場合は、ビントゥルにある同郷者・同姓者の社団に所属する必要がある。華語学校も存在せず、スバオの華人生徒は基本的にマレー語を教育言語とする国民学校で学んでおり、中国語教育を受けることを希望する生徒はビントゥル等の外地の華語学校に進学する必要がある。またスバオではイバンやカヤンといった他の民族集団と華人との通婚も見られる。スバオの華人墓地の中には華人と結婚した先住民女性の墓や、華人と親族・姻族関係にある先住民の墓も存在する。スバオでは華人コミュニティが定着・形成される一方で、スバオ内部のみでは華人の各種社団の活動は完結していないのである。まだ伝統的な森林産物交易はほとんど行われていないものの、スバオにおける華人人口の相対的な少なさや、周辺に多数居住する先住民の存在により、華人・先住民両者の社会的関係は依然として密接なように見受けられる。(写真6、7)
写真6:スバオ華人墓地入口 写真7:スバオ現地住民墓碑
トゥバオ(Tubau)の華人社会概況

 クムナ川は上流でトゥバオ川とジュラロン川に分岐する。トゥバオはこの分岐点に位置する木造のショップハウスとその周辺の小学校、政府機関、家屋群からなる小規模なパサールである。トゥバオのショップハウスで商店を経営するある華人は、現在約30人の華人がトゥバオに居住すると説明する。だがトゥバオの華人の多くはビントゥルやミリ、近隣の幹線道路沿いに家屋や商店を所有しながら、定期的にトゥバオを訪問し商店経営や家族訪問するという生活を送っている。またトゥバオには華人と先住民の親を持つ、いわゆる「混血者」が居住するため、正確な華人の人口は不明かつ流動的である。(写真8、9)
写真8:トゥバオ遠景 写真9:トゥバオショップハウス
 トゥバオの華人はパサールの近くの森の中に華人墓地を形成し、死者をそこに埋葬してきた。ただしトゥバオには現在に至るまで華語学校や同郷会館、同姓会は存在しない。華人寺院もなく、小規模な祠(大伯公)があるのみだが、これも90年代になり外部から新たに来た福州系華人が作ったものである。多くの華人を対象とする先行研究が指摘してきたような、華人は新たな移住先に各種の社団や寺廟を建設する、という現象はここでは見られない。(写真10)
写真10:トゥバオ大伯公
 クムナ流域の他の華人社会と同様、トゥバオに到来した初期の華人は潮州人と少数の福建人であった。ブルック家の統治下で第二次世界大戦以前から華人はジュラロン川とトゥバオ川の合流点に到来して居住し、上流に居住するカヤンやプナンといった先住民を訪問し、テツボク、ロタン、各種樹脂、エンカバン、各種工芸品(マットやカゴ)等を入手し、逆にパサールからは衣類や食料、調味料等を上流もたらしていた。これら森林産物はクムナ川の船便で下流のビントゥルの華人企業にもたらされ、逆ルートで商品がトゥバオのパサールにもたらされた。さらに1950年代からはサラワクの他地域(現在のスリ・アマン省)から新たにイバンがこの地域に移住し、ジュラロン川やトゥバオ川上流にロングハウスを建設したり、他の先住民のロングハウスに婚入するようになった。

 1970年代にはこの地域でも森林産物の取引は低調になったが、クムナ・ジュラロン水系での森林伐採は活発になった。当該水系でのこれら経済機会の増加・経済活動の活発化により、河川は主要な交通機関となった。この時期はビントゥル・トゥバオ間を一日十便のエクスプレス。ボートが往復し、上流のロングハウスに居住する住民や伐採企業関係者は河川交通の要所であるトゥバオを頻繁に訪問・滞在し、そこで商品を購入していたとのことである。トゥバオにおけるビジネスチャンスの増大とともに、1960年代以降は他地域から福州系華人がトゥバオにも到来し、商店・飲食店・旅館の経営や林業関係企業で働くようになった。

 だが90年代後半以降、次第に内陸部の幹線道路や林業企業による伐採道路が整備され、上流の先住民や林業企業関係者の交通手段が河川から陸路を中心になるに従い、クムナ・ジュラロン水系の最上流のパサールであるトゥバオを訪問する人々が減少するようになった。エクスプレス・ボートも2000年には運行を停止した。時を同じくして、トゥバオ川にはワニが戻って来るに至った。かつてエクスプレス・ボートの定期便や河川を往復するモーター・ボートの数が多かった時期には、頻繁な船の行き来や騒音によりジュラロン川からはワニはいなくなってしまったらしいが、往来する船の数が減ることにより、静かになったジュラロン川にはワニがまた戻ってきたのである。

また内陸部の生業としてアブラヤシ・プランテーションやアブラヤシ・スモール・ホルダーの活動が無視できなくなり、水路ではなく幹線道路の重要性が高まった。トゥバオでの経済機会の低下に従い、福州系華人もトゥバオを離れ、幹線道路沿いや他の大都市でのビジネスや居住に切り替えるようになった。ビントゥルからトゥバオに至るまでの陸路はそれまで途中までしか舗装されていなかったが、2012年には完全に舗装された道路がトゥバオ・パサールが面する川の対岸にまで到達した。

 トゥバオの華人社会は縮小化の一途をたどったが、流域の先住民との密接な関係や通婚等により、現在のトゥバオには依然として華人と先住民の両親を持つ人々が珍しくない。ただしこれらの人々を一義的に「混血華人」とみなすことは、果たして現実を正確に反映しているかどうかは疑問である。彼ら彼女らの自己認識に関してはさらなる調査が必要とされる。

 いずれにせよ、これらの「混血者」は春節や清明節には華人の親族・姻族の家屋に集まり、墓参・祖先祭祀・親族との交流等を行うが、その一方でクリスマスや収穫祭(Gawai)の時期には自己の双系出自をたどり、あるいは婚姻相手を頼ることにより、メンバーシップを主張できるロングハウスを訪問し、そこに滞在することも珍しくない。またロングハウスに自己の部屋を所有したり、ロングハウス周辺の土地を耕作して換金作物を植え、子供をロングハウスで育て自分は外地で働いたりする「混血者」もいる。

 これらの「混血者」は父親が華人の場合は出生証明書の記載に従い華人として登録され、たいていの場合、華人的な姓を持つことになる。だが当事者からの説明によると、先住民コミュニティでは慣習に従い、これら「混血者」も双系的な関係をたどることによりロングハウスのメンバーとなり、ロングハウス周辺の土地を使用できるとのことである。

考察

 クムナ・ジュラロン水系に点在する華人コミュニティを概観するだけでも、「大都市の社団や寺廟、華語学校を持つ典型的な華人社会」、「比較的小規模で自前の社団や華語学校がないコミュニティ」、「小規模な都市や遠隔地を離れ向都市移動や頻繁に移動する人々」、「華人・先住民コミュニティの双方に関係を持つ人々」、「先住民コミュニティに入ってゆく人々」といった多様なバリエーションが存在することが見て取れる。華人社会内部の多様性や居住形態の変化については既に多くの先行研究が指摘しており、クムナ・ジュラロン水系の事例のみが突出して多様性を示しているわけではない(Tan 2000)。だがこの地域の華人の多様性を理解するためには、本稿前半で指摘した、自然環境利用、先住民との関係、それによる華人コミュニティの多様化、という三点を視野に入れる必要があると思われる。

 前述のようにこの地域では河川下流や沿岸部に華人が移住・定住し、その後上流に向かうという移動のみでなく、河川上流のロングハウス・コミュニティに近く、森林産物交易の要所である河川上流域に移住・定住し、その後、下流や大都市に再度移住するという流れも存在した。もちろん、この向上流移動や向山地移動のみがサラワクにおける華人の移住パターンであったわけではい。だがブルック家の統治下から第二次世界大戦後まで続いた、先住民と華人との交易ネットワークに基づく森林産物取引と戦後の森林伐採、およびかつてのサラワクの基本的な移動手段であった河川での船による交通が、当該水系における華人の居住地や居住パターンを決定したのが間違いなさそうである。しかし河川上流域という遠隔地では、森林産物の取引はともかく、華語学校や社団、寺廟の設立が困難である。そのため上流域の華人は外部のより大規模な華人社会の社団や学校、寺廟等をアウトソーシング的に使用する必要があった。この状況は、陸路の発達やアブラヤシ・プランテーションの重要性の増加に伴う経済的に重要な地域の変化、若年層の向大都市移動、ロングハウス住民の居住パターンの変化といった、いわゆる「流域社会から陸域社会へ」(祖田・石川 2013)というサラワク各地でみられる社会変化により、さらに変化した。現在の上流域の小規模な華人コミュニティの現状は、単なる未発達なコミュニティや低開発の結果と見なすよりも、自然環境利用の方法の変遷過程の結果であると理解するべきである。

 また先住民コミュニティとの経済的・社会的に密接な関係や地理的な近接性は、華人と先住民との婚姻やそれに伴う「混血者」の誕生につながった。この先住民との密接な関係や「混血者」の誕生も、森林産物の取引や森林伐採、河川上流域での生活という華人を取り巻く自然環境利用の方法や地理的状況の産物である。他方、ロングハウス・コミュニティにおけるメンバーシップやそこでの生活は、必ずしも華人コミュニティのそれとは抵触しないようであり、逆もまた然りである。サラワク州でも華人はブミプトラとしては認められず、「混血華人」も法的にはブミプトラとしては認定されないが、ロングハウスのコミュニティ内部の日常生活や慣習の領域では、華人の親・祖先をもつことは先住民コミュニティからの排除につながるわけではないようである。マレーシア華人、さらにはサラワク華人の多様性を説明する場合、分析の枠組みを華人社会内部のみに限定して議論を進めるのは現実にそぐわない。

 クムナ・ジュラロン水系各地の事例で見られる、華人と自然環境との関わりは、熱帯バイオマス社会の特徴を理解する上での一つの視点になるように思われる。高度な生物多様性と豊富な生物量に依拠し、外部社会で珍重される生物資源の獲得や特定の作物の大規模栽培、そしてそれらの域外輸出に依拠した生活という特徴を持つ熱帯バイオマス社会においては、華人という中国系移民およびその子孫の生活も彼ら彼女らを取り巻く自然環境の特徴や他の民族集団との関わりから多大な影響を受けざるを得ないのである。都市の商業従事者として見做されがちであるサラワクの華人たちだが、彼ら彼女らの地域的多様性に注目することは、熱帯バイオマス社会の歴史的変遷や現代的特徴を理解するための一つの切り口になるのかもしれない。この地域における自然環境との関わりと、他民族集団との関わりという観点から、今後も熱帯バイオマス社会における華人社会の特徴について調査研究して行くことを計画している。


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