サラワク官報・貿易統計の紹介-地域経済史の構築に向けて-

サラワク官報・貿易統計の紹介-地域経済史の構築に向けて-

小林 篤史 (政策研究大学院大学)


サラワク初訪問を終えて

 2014年1月29日から2月5日にかけて、筆者は初めてマレーシア・サラワク州を訪問した。ビンツルを拠点に、アブラヤシ・プランテーション見学、ロングハウス滞在、ボートによるクムナ川の遡上など多くの体験を得ることができた。
 特に、近年まで河川交易の中継地として繁栄したとされるトゥバウを訪れた際(写真1)、その町の閑散とした様子が印象に残っている(旧正月に訪問したという理由もある)。それは大まかに言って、内陸に向かう幹線道路が政府によってある程度整備され、さらにトゥバウを寄港地としていた河川のエクスプレス・ボートが廃業したため、ヒトやモノの移動が別のルートをとるようになったことが原因であるようだ。流通経路の変化が、交易拠点として機能した一つの街の盛衰を左右したといえる。
写真1:対岸から眺めたトゥバウの街
 その一方で、ビンツルから内陸に向かう幹線道路沿いには、いくつものアブラヤシ買取所が活況を呈し(写真2)、現地民によるアブラヤシ小農生産の活性化を象徴していた。これまでプランテーションを中心としていたアブラヤシの生産が、地域住民も巻き込みながら重要な産業へと発展していく様子を看取できた。この大きな流れを単純化していえば、河川交易から陸路・道路による流通へ、そして焼畑農耕や森林産物採集から外需向けのモノカルチャー農業へ、というサラワク地域経済の転換を想定できる。
写真2: 道路沿いのアブラヤシ買取所
 ただ、流通の発達と生産体制の変化との対応関係はそれほど単純ではなく、現在でも「伝統的」な森林産物の採集が継続している側面もある。今回の視察ではビンツルのラタン工場を見学する機会を得たが、そこでは大量のラタンが加工され、出荷を待っている状態であった(写真3)。19世紀の段階からラタンは現地住民によって採集され、河川交易から沿岸交易につながる商人ネットワークによって輸出されていたサラワクの主要産品であり、これも単純化を恐れずに言えば、森林産物交易の持続性という特徴がみいだされる。概して、サラワク地域経済は世界市場における森林産物や農作物の需要の拡大に機微よく反応しながらも、域内で醸成されてきた地域経済のダイナミズムも、その都度、変化を伴いながら活性化する傾向がありそうである。
 では、地域住民の生産活動に変化を与える世界経済からのインパクトの中で、現在のサラワク地域経済には過去からどういった性質が引き継がれ、一方で何が変わりつつあるのだろうか。また、近年の地域経済の変容が経済活動にとどまらず、地域住民のロングハウスからの離脱や食文化の変化といった社会や文化の側面にも影響を与えているならば、それを引き起こしている外来のインパクトが、何故、過去と比べてそれほど重大ものとなっているのかを歴史的観点から検討することは、地域住民の生存基盤の今後を考えるうえでも有益だろう。
 以上のように、筆者はサラワクの現状を視察してみて、現在進行形の事象を考えるうえでも、歴史研究は有意義な視角を提起できると感じた。では、サラワク地域史の検証を進めるうえで、我々はどのような史料を用いることができるだろうか。このニュースレターでは、19世紀末から20世紀前半の期間、サラワク官報(Sarawak GazetteとSarawak Government Gazette)に収録された貿易統計の利用可能性について考察してみたい。
写真3: ビンツルのラタン工場
写真3:ビンツルのラタン工場
サラワク官報・貿易統計の捕捉範囲

 1870年から発行され始めたサラワク官報には、太平洋戦争による日本占領期直前の1940年まで貿易統計が掲載されていた。いくつかの研究がこの貿易統計を用いているが、その性質・利用可能性について踏み込んだ考察はなされていない。ここで、その貿易統計の性質を探るうえで、先行研究によって提示された戦前のサラワク地域経済のモデルを参照しよう。なお、サラワク官報は、京都大学・東南アジア研究所図書室にマイクロフィルムで所蔵されているものを利用した。1920~1940年の貿易統計はイギリスのロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)に所蔵されているものを用いた。
 図1はダニエル・チュー(Daniel Chew)によって提示された、19世紀から20世紀前半にかけて構築されたサラワクの流通ネットワークの概念図である。1841年のジェームス・ブルックによるサラワク王国の成立以降、その領土拡張とともにクチンを拠点とした華人商人ネットワークが、③河川交易を介して内陸まで伸長し、現地民との交易によって森林産物を獲得した。そしてそれら産物は、②沿岸交易によりクチンに運ばれ、そこからさらにシンガポールに輸出(①国際貿易)されることで世界市場に供給された。すなわち、この概念図は、19世紀に進展したサラワク地域経済と世界経済との接触の構造を表現している。本稿では、この流通ネットワークの構造と形成プロセスが、サラワク官報の貿易統計からどの程度復元できるのかを検討する。

図1:19世紀から20世紀前半におけるサラワクの流通ネットワーク
出所)Daniel Chew, 1990, Chinese Pioneers on the Sarawak Frontier 1841-1941, Singapore: Oxford University Press, Chapter 5.

図1:19世紀から20世紀前半におけるサラワクの流通ネットワーク 出所)Daniel Chew, 1990, Chinese Pioneers on the Sarawak Frontier 1841-1941, Singapore: Oxford University Press, Chapter 5.


 まず、①国際貿易の内実は、サラワク官報の貿易統計からどこまで捕捉できるだろか。サラワク官報とサラワク関税局による貿易統計から抽出した、1870年から1940年にかけての海外輸出入額(Foreign Imports & Exports)を示したのが図2である。ここからは、1918年のみデータが欠落するが、通年でサラワクの国際貿易の規模と趨勢を捕捉することが可能である。また、基本的に海外輸出が輸入を上回っており、この期間、サラワクの貿易収支は黒字であった。

図2: サラワクにおける海外輸出入額(1870~1940年)
単位)千万ドル 出所)1870~1907年はSarawak Gazette, Sarawak Trade Returns各年より、1908~1917年はSarawak Government Gazette, Sarawak Trade Returns各年より、1919~1940年はAnnual Report of the Department of Trade and Customs各年より。 注)貨幣・貴金属含む。

図2: サラワクにおける海外輸出入額(1870~1940年) 単位)千万ドル 出所)1870~1907年はSarawak Gazette, Sarawak Trade Returns各年より、1908~1917年はSarawak Government Gazette, Sarawak Trade Returns各年より、1919~1940年はAnnual Report of the Department of Trade and Customs各年より。 注)貨幣・貴金属含む。


   この貿易統計には一つ不備がある。それは、1870年から1917年のデータはサラワクの貿易と表記されながらも、その範囲がはっきりしない点である。この期間、サラワク王国は領土拡張を進めており、ブルック政府が作成した貿易統計はクチンだけのものか、それとも獲得した領域も含まれるのかという問題は、統計データを用いる際に把握しておく必要がある。この点をサラワク官報の海外輸出とクチンの海外輸出を比較した図3から検討しよう。この図でサラワク官報の年次貿易統計の海外輸出額(青の面グラフ)と、サラワク官報のクチン月次貿易統計から計算したクチンの海外輸出額(赤の線グラフ)を並べると、両者の水準はほとんど一致している。両データの比較可能な期間は1885年から1903年までに限られるが、概して1917年までのサラワク官報掲載の貿易統計は、クチンの貿易として扱うのが適切であるといえる。一方、1919年以降、関税局によって発行されるようになった貿易統計は、サラワク全体の国際貿易を掲載した。

図3: サラワク海外輸出・クチン海外輸出・シンガポールのサラワク輸入(1870~1917年)
単位)百万ドル 出所)海外輸出は図2に同じ。クチン海外輸出はSarawak Gazette, Kuching Monthly Trade Returns各月より、シンガポールのサラワク輸入はBlue Book for the Colony of Straits Settlements各年より。注)貨幣・貴金属含む。

図3: サラワク海外輸出・クチン海外輸出・シンガポールのサラワク輸入(1870~1917年) 単位)百万ドル 出所)海外輸出は図2に同じ。クチン海外輸出はSarawak Gazette, Kuching Monthly Trade Returns各月より、シンガポールのサラワク輸入はBlue Book for the Colony of Straits Settlements各年より。注)貨幣・貴金属含む。


 さらに、この貿易統計のもう一つの限界が、地域別の貿易額を捕捉できないことである。そのため、図1に示したサラワクの国際貿易の相手として、本当にシンガポールが重要であったのかをデータから確定できない。そこで、図3にサラワクの海外輸出額(青の面グラフ)とともに、シンガポールの貿易統計から抽出したサラワクからの輸入額(緑の棒グラフ)を並べた。つまり、サラワクの海外輸出のうち、シンガポールに向かった部分を示す。ここから、1870年から1899年までのサラワクの海外輸出先はシンガポールがほとんどであったことがわかる。1900年以降になるとシンガポールのシェアは低下したが、依然として重要な貿易相手であったといえる。図3では輸出のみを示したが、輸入額で見ても同様の傾向が読み取れる。やはり、サラワクの国際貿易の相手として、シンガポールが重要であったことは間違いないだろう。
 サラワク官報の貿易統計からは、国際貿易の商品構成も捕捉できる。図4は1870年から1904年にかけて、サラワク(クチン)からどのような商品が海外に輸出されたのかを示す。この期間、サラワク官報の貿易統計には毎年119種類の商品の貿易額と量が掲載されており、それを筆者の商品に関する知識に沿って大まかに分類した。その内、熱帯林から現地民によって採集された天然樹脂(グッタ・ぺルカやジュルトンなど)、ラタン、その他多様な森林産物が重要な比率を占めている。また、華僑移民によって生産されたガンビル、胡椒、鉱物(砂金やアンチモン)、も重要な輸出品であった。現地民の重要な食料でもあったサゴも、西欧で消費される澱粉として輸出されていた。概して、19世紀末のサラワクは一次産品を海外に輸出していたことがわかる。

図4: サラワクの海外輸出商品(1870~1904年)
出所)Sarawak Gazette, Sarawak Trade Returns各年より。注)比率はドルベース。1876年のデータ欠落。

図4: サラワクの海外輸出商品(1870~1904年) 出所)Sarawak Gazette, Sarawak Trade Returns各年より。注)比率はドルベース。1876年のデータ欠落。


 1905年以降、サラワク官報の商品別貿易統計はより詳細になるため、別の形で図5に示す。1905年から1940年まで、サラワクから海外へ輸出された160種類の商品を大まかに分類した。1905年からは石油が、1909年からは栽培ゴムが新たな商品としてリストアップされ、それらはサラワクの重要な輸出商品となっていった。1920年以降はサラワク全体の輸出であり、石油のシェアが急増したのは油田が開発されたミリのデータが貿易統計に含まれるようになったためである。おそらく、クチンだけでみれば新商品の栽培ゴムとともに、旧来の森林産物、胡椒、そしてサゴなどの一次産品が依然として重要な輸出品であったと想定される。以上、図4と図5で示した海外輸出の商品構成と同様のものは、輸入についても抽出が可能であるが、その大部分は衣類や食料など大衆消費財が占めていたことを指摘しておく。

図5: サラワクの海外輸出商品(1905~1940年)
出所)1905~07年はSarawak Gazette, Sarawak Trade Returns各年より。1908~1917年はSarawak Government Gazette, Sarawak Trade Returns各年より。1920~1940年はAnnual Report of the Department of Trade and Customs各年より。注)比率はドルベース。

図5: サラワクの海外輸出商品(1905~1940年) 出所)1905~07年はSarawak Gazette, Sarawak Trade Returns各年より。1908~1917年はSarawak Government Gazette, Sarawak Trade Returns各年より。1920~1940年はAnnual Report of the Department of Trade and Customs各年より。注)比率はドルベース。


 次に、サラワク官報の貿易統計による②沿岸交易の捕捉範囲である。図6はサラワク官報と関税局の貿易統計から抽出した、1870年から1930年にかけての沿岸交易額(Coasting Imports & Exports)である。これは厳密にはクチンと沿岸諸港との間の移出入を示す。この図からは、全体的に沿岸移入が移出を上回っており、クチンの沿岸交易の収支は赤字であったことが分かる。

図6: サラワクにおける沿岸移出入額(1870~1930年)
単位)百万ドル 出所)図2に同じ。注)貨幣・貴金属含む。

図6: サラワクにおける沿岸移出入額(1870~1930年) 単位)百万ドル 出所)図2に同じ。注)貨幣・貴金属含む。


図7: サラワク・クチンの沿岸移入商品(1870~1904年)
出所)図4に同じ。注)比率はドルベース。1876年のデータ欠落。

図7: サラワク・クチンの沿岸移入商品(1870~1904年) 出所)図4に同じ。注)比率はドルベース。1876年のデータ欠落。


 さらに、どういった商品が沿岸諸港からクチンに移入されていたのかを図7でみると、天然樹脂、ラタン、サゴといった海外向けの一次産品が多く、これら商品は最終的にはクチンからシンガポールへ輸出されたと考えられる。つまり、貿易統計からは、クチンが沿岸交易と国際貿易をつなぐ中継港として機能した様子が捕捉できるのである。同様に、サラワク官報の貿易統計には、1905年以降の沿岸移出商品の詳細も掲載されている。また、沿岸移入の商品構成についても捕捉可能であることを指摘しておく。
 サラワク官報の貿易統計からは、クチンの沿岸交易の相手がわからないという限界がある。しかし、サラワク官報に掲載された船舶統計(Shipping)を用いれば、この不備を補うことができる。表1には19世紀末以降の各年で、クチンに沿岸諸港から入港した船舶数を示す。この表では、上から入港船舶数が多い出港地を並べた。Mukah、Sadong、Oya、Sibuといった第2管区(Second District)からの来航数が多い傾向が読み取れる。船舶統計は出入港船舶の数を示すのみで交易額まではわからないが、この統計からクチンの沿岸交易の相手を推測することが可能となるだろう。また、船舶統計には各船の船長名が掲載されており、そこから沿岸交易の担い手を検証することも可能となるだろう。今後の課題としたい。

表1:  クチンに入港した船舶数とその出港地(1890~1912年)出所)Sarawak Gazette, Shipping各年より。 注)原資料は蒸気船と帆船を分類しているが、本表では両者の合計を示す。

表1: クチンに入港した船舶数とその出港地(1890~1912年)出所)Sarawak Gazette, Shipping各年より。 注)原資料は蒸気船と帆船を分類しているが、本表では両者の合計を示す。


 最後に、③内陸河川交易である。残念ながら、サラワク官報には内陸河川交易に関する体系的な貿易統計は掲載されていない。我々が河川交易を検証する際に利用できるのが、サラワク官報の管区報告(District Report)であり、内陸部の商業情報も多数掲載されている。一例をあげると、1923年5月1日付のサラワク官報には、ビンツル地域におけるエンカバン・ブームの様子が報告されている。

 The kampongs…have been deserted, the inmates having all gone off to gather engkabang. From the bazaar also many Chinese have gone upriver to gather and also to buy from Dyaks and others. I think it is safe to say that the crop this year will be a record breaking one for this District, as reports from Tatau concerning the amount in that river are equally favorable. I regret to hear that many pady farms have been abandoned by their owners, gathering engkabang being apparently more attractive than farming; of course these people will be losers in the long run.
(…は筆者省略)

 数年に一度、結実するエンカバンの実は高く売れるため、村(カンポン)の住民は皆その採集に出払ってしまい、稲作は放棄されてしまうと行政官は嘆いている。今現在の現地民によるアブラヤシ生産への傾倒に似た現象は、この頃にも起こっていたのである。また、下流にあるバザールの華人商人たちも、エンカバンを現地民から買い取るため上流に向かったとされる。1923年のエンカバン一斉結実という商機は、内陸河川交易の活況をもたらしたといえる。
 また、ビンツルに集められたエンカバンは、沿岸交易によってクチンに運ばれ、そこからさらにシンガポールへ輸出されたと予測される。サラワクからのエンカバンの海外輸出量を示した図8からは、1923年の記録的な輸出量の増加が分かる。内陸河川交易の活況が、沿岸交易、そして国際貿易に連鎖し、サラワクの流通ネットワーク全体が活性化したことが伺える。管区報告と貿易統計の組み合わせによって、こうした実証も可能となるだろう。

図8: サラワクにおけるエンカバンの海外輸出量(1905~1940年)
単位)ピクル(60.478 kg) 出所)図5に同じ。 注)貿易統計における商品名はIllipe-nutsである。

図8: サラワクにおけるエンカバンの海外輸出量(1905~1940年) 単位)ピクル(60.478 kg) 出所)図5に同じ。 注)貿易統計における商品名はIllipe-nutsである。


まとめ

 図1に示したサラワクの流通ネットワークの復元は、①国際貿易②沿岸交易の総輸出入額と商品構成については可能だということが明らかになった。しかし、地域別の貿易・交易の捕捉については不備があること、ただ、シンガポールの貿易統計やサラワク官報の船舶統計を併用することで、その不備を補うことは可能だということも判明した。一方で、③内陸河川交易については、サラワク官報にはその貿易統計が掲載されていないため、数量的捕捉は困難だと結論付けられた。ただ、内陸部の商業活動の内実を検証するためには、サラワク官報の管区報告を読み込み、そこに記述された事象を国際貿易や沿岸交易のデータから裏付けるという作業の有効性も確認された。
 しかしながら、貿易統計を用いた流通ネットワークの分析は、クチンを中心とした流通構造の検証に限られるということは認識すべきである。サラワク政府の本部はクチンにおかれ、サラワク官報の貿易統計はその政府によって作成されたため、その情報の捕捉範囲がクチンに偏ってしまうのは致し方ない。そして、1920年以降の貿易統計の捕捉範囲の拡大は、1917年のヴァイナー政権の開始による統治体制の変化と関連している可能性が高いだろう。いわば、図1の流通ネットワークのモデルも、基本史料となるサラワク官報の性質に導かれたものだといえる。一方で、このモデルから外れた流通ネットワークは、どのようなダイナミズムをみせたのだろうか。近世からこの地域の交易ハブとして繁栄したブルネイの流通ネットワークの拡大も否定できないし、さらにサラワク北東部ではフィリピンとの貿易も重要であったかもしれない。こうした史料の性質と、そこから零れ落ちたであろう実態を意識することで、サラワク地域経済の変容はより多面的に捉えられるだろう。

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