ビンツル省における流域社会のエスノスケープ

ビンツル省における流域社会のエスノスケープ
加藤 裕美(京都大学 白眉センター/東南アジア研究所)
鮫島 弘光 (京都大学 東南アジア研究所)
祖田 亮次(大阪市立大学 文学研究科)
内堀 基光 (放送大学 教養学部)
奥野 克巳(桜美林大学 リベラルアーツ学群)
石川 登 (京都大学 東南アジア研究所)

 当プロジェクトでは、ビンツル省のクムナ川、タタウ川流域を中心に研究を行っている。本稿では、これらの流域に暮らす各民族集団の概要をまとめたいと思う。それぞれの民族集団の詳しい状況や、流域(間)社会のエスノスケープについては個別の研究が進められているので、本稿では各民族集団の概況を述べるにとどめたい。社会科学系の皆さんにおいては、以後の調査で得られる知見や情報を暫時加えていくための基礎的なデポジトリーとして、自然科学系の皆さんにおいては、調査地に携帯して参照する民族の「名鑑」として機能すればと考えた次第である。

概況
 統計局の資料によると、2010年、ビンツル省には約23万人が居住している。このうち最も多い民族集団がイバン(Iban)で全体の40%を占めている(図1)。次いで華人(Chinese)14%、ムラナウ(Melanau)10%、マレー(Malay)9%、ビダユ(Bidayuh)1%と続く(Department of Statistics Sarawak 2010)。内陸部に居住するカヤン(Kayan)やクニャ(Kenyah)などの民族集団をまとめたオラン・ウル(Orag Ulu)は人口の5%を占めているに過ぎない。その他、外国人も21%おり、外国人の居住率も高い地域である。サラワク全体の人口構成比と比較した、ビンツル省の特徴は、外国人、イバン、ムラナウの人口が多く、逆に華人、マレー人の人口が少ないことだ。

図1: ビンツル省の行政資料による民族別の人口比

図1: ビンツル省の行政資料による民族別の人口比

 歴史的に、クムナ川、タタウ川流域は19世紀後半までブルネイ王国の支配下にあり、それ以前は人口の希薄な地域であった(表1)。クムナ川流域には、ヴァイ・スガン(Vaie Segan)、プナン(Penan)などが住んでおり、タタウ川流域にはタタウ(Tatau)が住んでいたとされる。ビンツルという名前は、この地域に住んでいたヴァイ・スガンの言葉で「首級を燻製にする(metu ulau)」という言葉が訛ってできた名前であるという。現在でもスブザウ(Sebezaw)川の支流にビンツルの語源になったMetu Ulau川が存在する1 (写真1)。19世紀になると、ラジャン川上流部から稜線を越えてカヤン、プゥナン(Punan)、ブカタン(Bekatan)、ルガット(Lugat)などが移住した。その後1883年には、クムナ川、タタウ川流域はブルネイ王国よりブルック政府に割譲され、それと同時にスクラン川やサリバス川などサラワク西部からのイバンの移住が進み、交易のために華人も移住してきた(図2)。

表1: ビンツルにおける人口推移 (※Dayaksとはイバンを、PunansとはPenanとPunanを指す) / Table1: Demographic Change at Bintulu (Dayaks=Ibans, Punans=Penan and Punan)

表1: ビンツルにおける人口推移 (※Dayaksとはイバンを、PunansとはPenanとPunanを指す) / Table1: Demographic Change at Bintulu (Dayaks=Ibans, Punans=Penan and Punan)

図2: ボルネオ北部の主要河川

図2: ボルネオ北部の主要河川

図3: クムナ川、タタウ川流域における村落分布 / Fig3: Distribution map of villages and communities along Kemena and Tatau Rivers

図3: クムナ川、タタウ川流域における村落分布 / Fig3: Distribution map of villages and communities along Kemena and Tatau Rivers

 以下では、流域に多く居住する、イバン、カヤン、クニャ、プナンなどの各民族集団について、流域別に簡単に説明する(図3)。なお、以下で述べる情報は、行政に登録されている民族別の村の数であり、実際にその村に住む人々のエスニシティは多様であり、ステレオタイプ的な語りはできないことを付言しておく。 写真1: Metu Ulau川 (出典_Pejabat Residen Bintulu) / Photo1: Sungai Metu Ulau (Pejabat Residen Bintulu)
イバン(Iban)
  イバンは、サラワク州で最も人口の多い民族集団である。サラワク州のみならず、サバ州やブルネイ、インドネシアにも居住する。かつては海岸部で海賊行為を行っていたため、海ダヤク(Sea Dayak)とも呼ばれていた。もともと現在のインドネシア西カリマンタン州のカプアス川流域出身の人々だといわれる(Pringle 1970)。焼畑稲作を主な生業としており、焼畑地の開拓にともなった移動を繰り返してきた。15世紀ごろから現在のサラワク南西部に入り、19世紀初頭までにはルパール川、その支流のスクラン川、サリバス=ラヤール川 、ラジャン川 などの地域に開拓移動し、その後100年ほどの間にサラワク州全域に広がった(図2)。
  ブジャライという慣行により男性は見知らぬ土地に交易等の目的で出かける慣習があった。こうした開拓・交易移動にともない、19世紀から20世紀初頭にかけて盛んに首狩りを繰り返した。首狩りをともなった戦闘では、プゥナンやブカタンなどイバンよりも小さな民族集団をクムナ川やタタウ川へと追いやった。また、プナンやタタウ、ルガットなどは、イバンの侵攻から逃げたり、イバン社会に同化してきたといわれている(Kedit and Chang 2007)。一方、ブカタンはイバンが首狩りに向かう道中の案内役となり、部分的にイバンと同盟的関係を結んだ(内堀1994)。生業活動としては、イバンは陸稲の栽培とともにゴムの採集、川魚の漁撈、イノシシなどの狩猟や家畜の飼育も行ってきた。現在では、稲作はかつてほど盛んではなく、都市や伐採会社での就労などが多い。また、アブラヤシの小農栽培に従事する人も多い。
  かつては多くの人が在来信仰であったが、現在ではキリスト教を信仰する人も多い。毎年6月1日には州政府の定めたガワイという盛大な収穫祭を各ロングハウスでひらき、トゥアクとよばれるもち米から醸造した濁酒が振舞われる。階級のない平等的な双系社会であるといわれており(Freeman 1955)、サラワク・マレー語に近い、イバン語を話す。
  行政プロファイルによれば2011年、ビンツル省全体では410の集落(ビンツル地区には229の集落、タタウ地区には181の集落)があり、流域ではトゥバウ川、カクス川上流を除くほぼ全域に居住している(Bintulu District Office 2011; Tatau District Office 2011)。クムナ川、タタウ川流域に暮らすイバンは、19世紀半ばから20世紀後半に至る時期に、サラワク西部の様々な地域から入植し、現地で分裂を繰り返していった。出身地は、サラトックやサリケイ、スクラン、シブ、エンキリリ、サリバス(ラヤール)など多様な地域に及ぶ(図2参照)。クムナ川中流域へのイバンの移住は、1886年にスクラン川のPenghulu Jelaniがブルック政府の許可のもとにスバウ川支流に入植をしたのを嚆矢とし、その後も入植が相次いだ(Linggang 2008)。クムナ川上流のジェラロン川では、20世紀前半(ブルック統治期・イギリス統治期)までイバンが入植することは許されていなかったが、1963年のマレーシア連邦成立後に移住が進んでいった。現在、クムナ川流域では、下流から上流のジェラロン川まで、全域にイバンの居住がみられる。
  タタウ川における最も早いイバンの入植はブルック期、19世紀半ばと推定される。ムプット川のRh. Agulや、タタウ-ビンツル道路沿いのRh. Saginは、19世紀中ごろにスクラン川で起きたルンタップの乱の際にそれぞれムプット川河口、タタウ川河口に移住してきたと伝えられる。最近では1980年代に移動してきた村もある。タタウ川上流のカクス川では、20世紀前半まで、イバンが住むことは許されていなかったが、1960年代より移住が進んでいった。現在、タタウ川流域においても、下流からアナップ川上流まで、ほぼ全域にイバンが暮らしている(写真2)。こうした村単位での移住のほかに、ジェラロン川上流で見られるように、数世帯で移住してきたイバンがプナンと一緒に住むこともある。
写真2:アナップ川最上流のイバンのロングハウス / Photo2: An Iban Longhouse at the upstream of Anap River
華人(Chinese)

  ビンツル省で2番目に多い民族集団である。行政資料によると、華人はビンツル地区に約3万2千人、タタウ地区に2千人ほどが住んでいる。出身地によって客家、福州、潮州などの下位集団に分けられる。華人のビンツル省への移入19世紀半ばとされ(Liggang 2008)、タタウの街にもブルネイ時代から華人が住んでいたと言われている。かつては、上流部に住む先住民との林産物交易の担い手として活躍した。現在では、都市部で企業や商店を経営するなど様々なビジネスを展開している。現在、ビンツルで木材・プランテーション関連ビジネスを独占している華人は、シブから移住してきた福州華人である。福州華人は、クムナ流域では、1920年代にブルック政府の政策のもとでスバウにゴムと水稲耕作のために入植したが、いちはやく鉄木の製材やアタップ(鉄木の屋根材)の取引に参入している。トゥバウやサンガンなど上流部の小さなバザールにも居住しており、こういった地域においては先住民との間の経済活動や婚姻、養子縁組等が盛んである(写真3)。これらのバザールでのダマール、ジュルトン、ロタンなどの森林産物の交易は主に潮州華人によって行われた。両親にこれらの華人と先住民を共に持つ、いわゆる「混血華人」も多く存在する。
写真3:トゥバウのバザールで笠を編む華人男性とその妻(イバン)
      男性の弟はカヤンと結婚したり、プナンの養子になっている / Photo3: An ethnic Chinese man and his Iban wife making hats at the bazaar of Tubau, his younger brothers are married to Kayan or adopted to Penan family
カヤン(Kayan)
 カヤンは、クムナ川上流のトゥバウ周辺とトゥバウ川流域に暮らしている。この地域以外にも、バラム川、バルイ川上流、インドネシアの東カリマンタン州に多く居住する。1920年代まで各地でイバンと激しい戦闘を繰り広げた人々である。イバンと同じく焼畑稲作を主な生業としてきており、漁撈や狩猟、ゴムの採液、コショウ栽培なども行ってきた。トゥバウ周辺のカヤンは、かつてはブラガ川のプナンとも森林産物の交易をおこなっていた2。現在では多くが都市や伐採会社で就労し、ロングハウスに暮らす若者は少ない。もともと在来信仰であったが20世紀半ばにブンガン教3を信仰するようになり、現在ではほとんどがキリスト教を信仰する。カヤンはイバンと異なり階級制のある社会であると言われている(Rousseau 1990)。世襲制の首長層(maren)のほか、平民層(panyin)、従者層(dipen)に分けられるが、現在では従者層は認められていない。首長層出身の者は教育程度も高く、ビジネスを手掛ける人や、最近では広大なアブラヤシ園をひらく人もいる(写真4)。
 ビンツル省では、トゥバウ周辺にのみカヤンの村(ロングハウス)があり、タタウ川流域にはない。ジェラロン川下流に2村とトゥバウ川中下流域に6村あり、8村での人口は約1,500人である(図3参照)。これらのカヤンの故地は、東カリマンタンのカヤン川であり、そこから稜線を越えてウスン・アパウに移住してきたと言われる。その後、1780年ごろにはそこからさらにバルイ川に移住してきた(Cramb 1979)。そして、19世紀初頭には、戦闘を避け、肥沃な土地を求めてバルイ川からトゥバウ川へ移住してきたと考えられている(Cramb 1979, Rousseau 1990)。バルイ川ではUma Jumanという一つ村であったが、トゥバウに来てから5つに分かれた。Uma Juman、Uma Awai、Uma Paku、Uma San、Uma Tevo’である4。トゥバウに移住してきた当時、クムナ川にはプナンが住んでいたが、多くのプナンはその後ラバン川、ティンジャール川、バラム川へ逃げて行ったと伝えられる5。トゥバウに住み始めてからは、カヤンはブルネイのスルタンが税金を徴収するのに反対して、ブルネイ軍に反乱したとされる。
写真4: 広大なアブラヤシ園をひらく首長層のカヤン / Photo4: A member of ruling group of Kayan community at his extensive oil palm plantation
クニャ(Kenyah)
  クニャは、クムナ川支流のトゥバウ川上流とタタウ川支流のカクス川上流に暮らす民族である(図3)。カヤンと文化的には近いが言語は大きく異なる。レポ・タウやバダンなど、40以上の下位グループが存在する。東カリマンタンのイワン川出身であるといわれており、数世紀前にサラワクに移動してきた(図2)。イバンやカヤンと同じく焼畑稲作のほか、漁撈、狩猟、商品作物の栽培なども行ってきた。カヤンと同じく、この地域以外にバラム川、バルイ川上流部、インドネシア東カリマンタンにも多く住んでおり、首長、貴族層などの階層制のある社会である(Rousseau 1990)。
クムナ川流域ではトゥバウ川上流に4村、タタウ川流域ではカクス川上流に6村ある。ビンツル省全体では、10村、約2,500人が暮らしており、いずれも、ラジャン川上流から移動してきた人々である。トゥバウ川にクニャが移住してきたのは1960年代であるという。ブラガ川のロン・バンガンからトゥバウ川に移住してきた。かつて、このブラガ川のクニャの村やトゥバウ川上流のクニャの村は、トゥバウとブラガの稜線を越えた往来の経由地であった。カクス川にクニャが移住してきたのは、それよりも遅く1985年である。もともと1960年代にインドネシアから、バルイ川上流のロン・ブサンに移住した人々が、1976年にブラガ下流のロン・ドゥンガンに移住した。そこから一部の人が、カクス川上流のダタ・カクスに移住してできた村である。この時、政府は1,284haの土地をクニャに用意し、一斉にICカードを作らせたという6。その後4~5つのロングハウスに分かれ、現在では6つのロングハウスにそれぞれ30~40戸ずつ住んでいる。

プゥナン(Punan)
 プゥナンは、下記にあるプナン(Penan)とは、言語的にも文化的にも異なる民族集団である。プナンが狩猟採集民であったのに対し、プゥナンは300~400年前から焼畑をおこなっていたといわれている(Nicolaison 1976)。プゥナンは西カリマンタンのマンダイツ出身であると言われ(Nicolaisen 1976)、焼畑稲作を中心にキャッサバやタロ、サトウキビなどを育て、狩猟や漁労もしていた。階層社会であり、首長層(lajar)、平民層(panyin)、従者層(lipien)に分けられる(Nicolaisen 1976)。なお従者層は現在では存在しない。ブサビbesavikといわれる在来宗教を信仰していであったが、後にブンガン教を取り入れ、現在では多くの人がキリスト教を信仰している。埋葬方法は独特で、首長層の人はクリリンと呼ばれる彫刻の施された木柱に遺体を収められた。
  プゥナンはクムナ川流域では、パンダンに1村、ジェラロン川に1村、タタウ川流域では、カクス川中流に2村、計4村、約1,400人が暮らしている(写真5)。カクス川のプゥナンは1820年代にバー川から移住していったグループであると言われる(Nicolaisen 1976)。当時は、カヤンがウスン・アパウからバルイ川に移住してきた時期であり、プゥナンに対してたびたび首狩りをおこなっていた。このような政治的不安や闘争を避けてプゥナンはカクスに移住してきたと伝えられる(Sandin 1970, Nicolaisen 1976)。当時タタウ川流域にはタタウしか住んでいなかったが、タタウの女性とプゥナンのリーダーが婚姻関係をもって住み始めるようになった(Sandin 1970)。つまり、カクスにあるプゥナンのロングハウスの一つは元々タタウのロングハウスであった。今でもカクス一帯は政治的にはプゥナンが優勢である(Sandin 1970)。
 パンダンに住むグループも同じころにバー川からラバンに移住してきた人々である。移住当時、クムナ川流域には、プナンやヴァイ・スガンしかいなかったという7。ラバンに住んでいたときにスガンの女性と結婚し、パンダンに移住するようになったとのことである。
  また、ジェラロン川にすむプゥナンについて、Nicolaisenは、バー川に住んでいた人たちがブルック期にイバンの首狩りから逃げて移住してできた村であるという(Nicolaisen 1976)。一方Crambは、パンダンに住んでいた人々が森林産物を求めて徐々に移住してできた村であるとしている(Cramb 1979)。プゥナンがジェラロンに来たときには、すでにプナン、カヤンがジェラロン川流域に居住していたが、イバンはまだいなかった。そのため、プゥナンはカヤンに許可を求めてジェラロンに住むようになったと伝えられる(Cramb 1979)。流域間でのプゥナンどうしの交流は現在でも盛んで、姻戚関係も多い。
写真5: カクス川にあるプゥナンのロングハウス  / Photo5: The longhouse of Punan community at Kakus River
ブカタン(Bekatan)
イバンなどからはブキタン(Bukitan)と呼ばれることもある。彼ら自身はブカタンと呼ばれることをより好む。ブカタンは、タタウ川上流のアナップ川中流に3村、プニャライ川に5村があり、8村での人口は、約1,200人となっている(図3)。ブカタンはもともと狩猟採集民でありサゴヤシを主食としていたが、プナンと比較してより早く19世紀末には焼畑稲作をおこなっていた(King 1975)。ブカタンも階層制のある社会であり、首長層(marin)、平民層(panyen)、従者層(setengah linou)、奴隷層(areh)8に分けられる(Kedit and Chang 2007)。現在では多くの人がキリスト教を信仰しているがイバンのようにガワイの祭りをする人もいる。
もともと西カリマンタンのマンダイ川に住んでいたが、カプアス川上流のパリンPalin川を経由してサラワクに入り、長くバタン・アイ周辺に住んでいた(Sandin 1967)。その後、イバンが首狩りをともなった開拓移動をしてきたため、一部はイバンに同化し、一部はイバンと戦って奴隷になり、また一部はカティバスやカノウィット川、ガット川やバレー川などより遠い地域に逃げて行った(Sandin 1968)。
ブカタンは、西カリマンタンからサラワクへ入った経路の違いにより、4グループに分かれる。Bekatan Malong、Bekatan Sut、Bekatan Kanyau、Bekatan Ngemah9である。現在、アナップ川に住むブカタンはBekatan MalongとBekatan Sut、カクス川に住むのはBekatan Malongの系統であるといわれる(Sandin 1968)。
  現在タタウ川に住む8村のブカタンの移住の経路はさまざまである。サンガンに住むブカタンはサリバスからオヤ、ムカー、バリンギアンを経由して、タタウ川の下流から入ってきたと伝えられる(Cramb 1979)。また、アナップ川流域に住むブカタンは、19世紀半ば以前に、ラジャン川からムリット川を経由し稜線を超えて移動してきたと言われる10。タタウ川にイバンが移住してくる前、ブカタンはタタウ川本流に住んでいた。しかし、イバンが移住してきてからは、イバンに同化する人もおり、同化しない人々は、より支流のサンガン川やプニャライ川へ移動して行ったと伝えられる(Sandin 1967, 1968)。また、ブカタンがプニャライ川に移住する前、プニャライ川にはタタウが住んでいたが、タタウは超自然的現象(祟り)を恐れて、プニャライを去ってタタウ川下流に移住し、そこにアナップ川から移住してきたブカタンがプゥナンに許可を求めて住むようになった11。一方タカン川に残ったブカタンもブルック期に下流に住むようブルック政府から促され、アナップ川中流に降りてきた(写真6)。かつてはイリペナッツやラタンを採集してタタウに売りに行っていた。現在でも村での在村率が比較的高く、稲作をする人もまだ多い。
写真6: ブカタンのロングハウスでの共食の様子 / Photo6: A scene from communal meal at the longhouse of Bekatan
プナン(Penan)
  プナンは、クムナ川に最も早くから住んでいた民族集団の一つである。現在、クムナ川中流、ラバン川上流、ジェラロン川、ミリ-ビンツル道路沿いに住んでいる(写真7)。この地域以外には、バラム川上流やラジャン川上流、インドネシアの東カリマンタン州、西カリマンタン州、ブルネイに多く住んでいる(Martin 1992; Sercombe 1996)。もともと狩猟採集民であり、森の中を遊動しつつ様々な動物を狩猟して暮らしていた。先行研究によると、クムナ川やジェラロン川に住むプナンは1830年から1880年頃にはすでに定住し、農業を行っていたと伝えられる(Needham 1965、Cramb 1979)。従来、在来信仰であったが、現在ではキリスト教を信仰する人が多く、イスラム教に改宗する人もいる。またイバンと混住しているプナンの村ではガワイの祭りをすることもある(写真7)。
沿岸部に住むプナンは早くから定住し、ムスリム化するなど他民族の影響を多分に受けている(Cramb 1979)。ジェラロン川に住むプナン以外はムスリムが多く、プナン・ムスリムと呼ばれている。ミリ-ビンツル道路沿いにはプナン・ムスリムが2村、500人あまりが居住している(写真8)。ラバン川河口にあるKampung Labang, Sebauhや、ラバン川下流のKampung Sebubun, Labang、クムナ川中流にあるKampung Maskatにも、ムスリム化したプナンがいるという。ムスリム化したプナンの村ではマレーやヴァイ・スガンとの婚姻関係が多く、スガン語が話されることも多い。
  ジェラロン川流域には現在4村、約400人が住んでいる。ジェラロン川に住むプナンは、ウスン・アパウから移動してきたプナンの子孫であると伝えられている(Needham 1965)。またその一部は、かつてはブキット・スクラップにある洞窟の中に住んでいたという12。他の民族においてもいえるが、他民族との婚姻関係が多く、行政上はプナンと登録されていても、話される言語はイバンであることも多い。とくにジェラロン川流域のプナンの村においてはイバンとの婚姻関係が多くみられる。先行研究では、こうした村では、外見上はイバンとの区別は付きにくく、プナンとしてのアイデンティティは徐々になくなっていくだろうと述べられている(Cramb 1979)。しかし、現在、村によっては逆に状況に応じてプナン性を強調することさえあるという(祖田・石川 2013)。一方ラバン川上流のプナンはこれとは系統が異なり、かつてはラバン川の源流部の洞窟に住んでおり、次第に下流に移住してきたと伝えられる。このグループは歴史的にはスアイ川のプナンとの交流が深かった。
写真7:ガワイの供え物をするジェラロンのプナン  / Photo10: Penan people making offerings for Gawai (harvest festival) at their community along Jelalong River 写真8:プナン・ムスリムの村/ Photo8: A village of Penan-Muslim community
マレー(Malay)ムラナウ(Melanau)
  マレーはビンツル省で3番目に多い民族集団もしくは範疇である。イスラム教を信仰しており、ビンツル地区に19,000人、タタウ地区に1,600人が居住している。ただしサラワクにおいては「マレー」という民族範疇は可塑的で、ムラナウやプナンなどであってもイスラム教に改宗すればマレーとみなされることも多い。ビンツル地区には沿岸部や都市部に33のマレー/ムラナウの集落があり、タタウ地区には3つのムラナウ集落と2つのマレー集落がある。
  ムラナウはサラワクに最も早くから住んでいた民族の一つで、イバンやカヤンが移住する前からこの地域に住んでいた。早くて16世紀にはラジャン川中流からビンツルなどの沿岸部に移動して住んでいたという(Morris 1978)。現在では沿岸部のムカーやダラットに多く住んでいる。プゥナンやブカタンに近似するグループであるといわれており、言語的にもこれらの言語に類似する(Pringle 1970, Metcalf 1976)。もともと在来信仰であったが現在7割ほどがイスラム教を信仰し、2割ほどがキリスト教を信仰している。後述のヴァイ・スガンをそのサブグループ(Melanau Vaie)とすることも多く、定義が難しい。

ヴァイ・スガン(Vaie Segan)
VaeeやBaee、Segaanとも表記される。またムラユ・ビンツルやムラナウ・ヴァイ、オラン・ビンツル、ヴァイ、スガアンとも呼ばれる。クムナ川下流に住み、タタウ語に近い独自の言語を持つ。ヴァイ・スガン語は、ビンツルの街では共通語として使われているという。現在、ムラナウやマレー、その他の様々な民族との婚姻が多く、イスラム教徒も多い。ジェラロン川流域では、「ムラユ(マレー)」と呼ばれることもある。
  口頭伝承によるとヴァイ・スガンはブキット・ルムットというところで長らくサゴヤシなどを主食とし狩猟採集をしていた。ブキット・ルムットはブラガの町の北西15km、カクス川とパンダン川の分水嶺に位置する(図2)。その後川を下ってきてビニョ川周辺でも遊動生活をしていた。その後クムナ川沿いを遊動しつつ川を下り、最終的にはクムナ川の河口に近い、スガン川に長らく定着したということである。1879年のサラワク・ガゼットによると、スガンは長らく海で漁労をして生活していた人々であり、しばしば海賊に攻撃され、焼き討ち、殺害、捕虜となる被害を受けていたとある(Sarawak Gazette 1879: 38)。ビンツルが1861年8月11日にブルネイ王からジェームス・ブルックに割譲される以前、ビンツルにはヴァイ・スガンやブルネイのマレー人が住んでいた。その後、1930年代よりメノウを売りに来たアラブ人の宣教集団との交流によって少しずつムスリムに改宗して行ったという。こうしたアラブ人やブルネイのマレー人と婚姻関係を結ぶことによりムスリム化も進んでいった13。現在、ビンツルの他に、パンダンやラバン、スバウにも多く住んでいる14
ビンツルの街の上流にあるKampung Baru、その対岸のKampung Sebuan Kecil、Kampung Jepakなどはヴァイ・スガンの村である。トゥバウの対岸のKampung Melayu Tubauにはヴァイ・スガンの村があったが、現在ではほとんどがビンツルに移住してしまっている。わずかに残っている数世帯も別の多様な民族が入りこんでいる状況で、行政資料上は7戸存在していることになっているが、すでにヴァイ・スガンの常住者はいないと考えてよい。トゥバウより下流にもいくつか、ヴァイ・スガンが関係する集落がある。そのうちの一つ、Kampung Pandan, Sebauh村は、パンダンの町よりも少し上流のクムナ川本流左岸に位置している。集落は74戸からなり、マレーが中心でヴァイ・スガンも数世帯混在しているという。このほか、スバウの町の近くには、Kampung Dulu(28戸)、Kampung Hilir(54戸)という2つの集落があり、いずれもマレーとヴァイ・スガンが混在している。この2つの集落をまとめて、Kampung Sebauhと呼ぶこともある。
トゥバウよりも上流では、プナンのロングハウスとされているRh.Resaにおよそ7世帯にヴァイ・スガンが婚入しており、この村ではヴァイ・スガン語が共通語として使われている。ブルック期には首狩りが激化しトゥバウのカヤンとラバン(スガン)の間で平和交渉をしたこともあった。カヤンがあまりにも首狩りをして領域を拡大しすぎたため、ラバン(スガン)の首長であるOyong Tijaという女性がAbang Taliという行政官に助けを求めてカヤン首長のMering Batoとの間で交渉がおこなわれた。これによってカヤンはトゥバウ川とジェラロン川の合流点より下流に住んではならず、スガンはラバン川とクムナ川の合流点より上流に住んではならなくなったという15
写真9: ヴァイ・スガンの人が住むビンツル町上流のカンポン・バル / Photo9: Kampung Baru, a Vaie Segan community located at the upper part of Bintulu
タタウ(Tatau)
タタウ川に最も古くから暮らしていた民族集団である。全人口は不明である。もともと6つのグループに分かれていたが、現在人数は少なく、イバンやプゥナンと混住し、ほぼすべてが他民族との婚姻関係を持っている。ムラナウ語に近い、独自のタタウ語を話す人々である(Nicolaisen 1977)。キリスト教を信仰するが、イバンの在来信仰に近い信仰をおこなっている。もともと狩猟採集民であったが、プナンよりも早くから焼畑農耕をおこなっていたと伝えられる(Sandin 1970)。
現在、タタウの街から少し上流のイバンのロングハウスに住むほか(写真10)、中流域ではRh. Sylversterがタタウの集落ということになっている。しかし、実際にはどちらもタタウとイバンの混成集落となっている。その他、ミナ川のプゥナンのロングハウスや、アナップ川、プニャライ川のブカタンのロングハウスにも混住している。かつては人口が多く、カクス川上流のプニャライ川やアナップ上流のタカン川に集落を作っていた。しかし、プゥナンやブカタンが移住するはるか前に下流に移住していった。イバンやブカタンが首狩りをしていた時は、遠くの森の中に逃げて住んだこともあるという。
タタウの口頭伝承によると、数世代前にプニャライ川でイチジク(kayu kara)の実を立って食べている大蛇を吹き矢で吹いてしまい、その肉を食べた祟りでほぼ絶滅してしまったという。また、それよりもはるか以前、タタウ川河口付近に住んでいた頃に、イノシシほどの大きさのイモムシを焼いて食べたために、その後生まれてくる子供たちが乳幼児期に死んでしまい、タタウの人口が減ってしまったとも伝えられる。これ以外に、マイン川やスリトゥット川で天然痘が流行し、多くの人が死んだともいわれる。その後、残った兄弟姉妹がたがいに結婚しあって子孫を増やしていったという。現在は、プゥナン、ブカタン、イバンとの婚姻関係が多い。
  タタウ川のあちこちにはタタウが建てたクリリンという墓がある。タタウ川の下流に19世紀末に建てられた6つのクリリンと2つのサロン(いずれも墓)があったが洪水の時に倒れてしまったという。そのほかタタウ川の中流、アナップ川の上流、プニャライ川など、流域のいたるところにタタウの墓があった。しかし、現在ではその多くが水没している16
写真10: タタウの村の村長家が所有する銅鑼の数々 / Photo10: The gongs belong to the family of village headman at Tatau
ルガット(Lugat)
この地域で最小の民族集団である。シハン語に近いルガット語を話すが、現在ルガット語を話すのは数世帯しかいない。独立したロングハウスは持たず、いずれも華人やタタウ、ブカタンなどと混住している。昔から人口の少ない民族であった。タタウの旧街に数世帯が住んでおり、すべて華人と婚姻関係を持っている。ツバメ巣の養殖や加工、ツバメハウスの建設などをおこなっている。カクス川中流のプゥナンのロングハウスにもタタウ(とプゥナン)と婚姻関係のあるルガットが住んでおり、またサンガン川のブカタンのロングハウスにもルガットの子孫が住んでいる。
 史料によるとルガットはバレー川のガット川出身の狩猟採集民であった(Low 1882, Brooke 1907, Freeman 1970)。19紀末にはラジャン川中流にてシハンやブカタンなどと共に住んでおり(Low 1882)、その後、タタウ川にも住むようになったが、20世紀初頭には依然としてタタウ川とラジャン川を行ったり来たりしていた(Owen 1905)。
  タタウの口頭伝承によると、ルガットはカクス川源流部にあるブキット・ルムットにある洞窟の中で長らく暮らしていたという。鍋などは持たず、かつては土の中で蒸し調理をする方法を用いてきたと伝えられる。その後タタウの勧めで洞窟から出てきて、タタウと混住するようになったという17。ルガットの口頭伝承によると、アナップ川上流では、カウィットが率いてクラガン・カウィットに住んでいた。カウィットの子供の一人はブカタンと結婚し、もう一人はタタウと結婚した。今タタウ旧街に住んでいるルガットは後者の子孫である18。少数民族であるが子供たちもルガット語をよく話す。
写真11: タタウの町近くに住むルガットの女性  / Photo11: A Lugat woman living near the town of Tatau
流域間のエスノヒストリー
  本稿では民族集団ごとの概況について述べてきたが、現在流域社会で見られるエスノスケープは人々の流域を越えた移動によって形成されたきた。ここではクムナ川流域とタタウ川流域における人々の流域間移動の歴史をまとめたい。クムナ川では、古くヴァイ・スガンやプナンがクムナ川河口からジェラロン川上流に至る広い範囲を移動しながら住んでいた。ジェラロン川に住むプナンのRh. Jelaihiの祖先達は、ジェラロン川とクムナ川河口を結ぶきわめて広範な流域にキャンプをつくり、自分たちの土地として認識していたようである。その後カヤンは、バルイ川よりトゥバウに移住し、また華人は河口より徐々に内陸に住み着くようになった。さらに、プゥナンがラジャン川中流、もしくはパンダンから移住してきた。そして後にイバンがサラワク西部の様々な地域から異なる時代にわたって入植するようになり、クニャがブラガ川から移り住んだ。人々の移動の歴史をたどると、ラジャン川、バルイ川、ブラガ川そしてサラワク西部の様々な流域から移ってきた人々が結果的に現在一つの流域を構成する形となっている。
タタウ川でも同様に、古くはタタウが住んでおり、19世紀初めにプゥナン、後にブカタン、19世紀後半に華人、ルガットが移り住むようになり、イバンが入植してきた。最も新しくは、1980年代にクニャが人口増加による土地不足によってバルイ川より移住した。歴史的にみると、ラジャン川、バルイ川など、いずれも近隣の流域からやってきた人々によって、現在のエスノスケープは構成されている。
人々がクムナ川やタタウ川流域に住み始めるようになった背景には、近隣の流域で起こった様々な出来事が起因している。例えば、1820年代にラジャン川よりタタウ川に移住したプゥナンは、カヤンがバルイ川に流入してきたため、政治的不安定や闘争を避けて移住するようになった。また、カヤンは19世紀に民族闘争を避けてバルイ川からクムナ川に移住してきた。同様に、ラジャン川に住んでいたブカタンは、19世紀にイバンの首狩りを避けてタタウ川に移住してきたという。そして、イバン自身はルンタップの乱を含む、様々な政治的要因や、新しい土地を求めた結果サラワク西部より入植してきた。
 注目すべきは、こうして流入してきたイバンやカヤン、ブカタンなどによって、より古くからクムナ川やタタウ川に住んでいたプナンやタタウなどの民族は、さらに上流部、下流部、他流域へと移動していったことである。例えば、クムナ川流域に住んでいたプナンのグループは、カヤンとの戦闘を避けて、ティンジャール川へ移っていったといわれる。また、一時クムナ川流域に住んでいたイバンが、後にさらに東部へ移動していった例もある。
移動の背景だけではなく、人々の移住の形態もさまざまである。イバンやカヤン、クニャのように複数世帯がまとまって大規模に移住してくる場合もあるが、プゥナンのように個人が流域を超えて移動、往来をおこなった結果、歴史が経過するとともに人口が増え村落を形成し村落が分裂していくことも多かった。現在の流域社会のエスノスケープは、このようなさまざまな背景を持った個々人の移動の歴史が交差、連鎖した結果である。
流域間の関係でいうと、タタウ川はラジャン川中流との往来が盛んであり、流域間の移動ルートも多く存在する。実際、タタウ川上流に住むイバンは、ラジャン川流域にあるカピットの町への往来が盛んである。現在でも、タタウ川上流に暮らす子供たちはラジャン川流域の小学校やカピットの町の中学校に通っている19。一方クムナ川も、やはりラジャン川上流部との往来が盛んである。タタウ川、クムナ川間での流域を越えた往来は、プゥナンでは聞かれたものの、今回のインタビューではそれ以外は明らかにならなかった。今後、クムナ川、タタウ川のみならず、近隣の流域を含めた流域間の歴史の連鎖や動態を追っていく必要がある。

重層的なエスノスケープ
クムナ川、タタウ川流域はさまざまな人々の歴史が交差しており、そうした歴史の折り重なりによって現在のようなエスノスケープが形成された。本稿では、わかりやすさを重視するために民族集団ごとに分けて書いたが、人々の移動が盛んであることや他民族との婚姻が多いこともあり、民族集団ごとの区別あるいは範疇は極めて曖昧である。行政上はある民族のロングハウスと登録されていても、実際そこに住む人々のエスニシティは多様であり、ステレオタイプ的な語りはできない。集団と範疇、民族名に関する名付けと名乗り、アイデンティティと日々の行動など、さまざまな位相のなかで重層的なエスのスケープが形成されている。
  また、クムナ川、タタウ川流域には、行政上は登録されていないタタウやルガット、ヴァイ・スガンといった人々が暮らしている。一つの村を構成する個々人の出自、歴史、宗教や言語などのバックグラウンドは様々である。そのため、イバンとプナンの混成集落やタタウとイバンの混成集落、プナンとヴァイ・スガンの混成集落、ルガットとブカタンの混成集落などもよくみられる。一見イバンなどのマジョリティのグループに同化しているように見えたり、外見上は政治的理由によりプナンに同化したように見えるイバンもいるが、その内情は必ずしも画一的ではなく、詳しく調べていくことが必要となる。
現在のクムナ川、タタウ川流域社会の景観は、そこに住む個々人の移動や生業活動の結果であり、その変化は、現在でも絶え間なく続いている。流域社会の一部を構成している、個々人の移動や社会関係などの背景を追っていくことは、流域社会全体を理解するうえで興味深い示唆を与えてくれる。

脚注

1 ビンツル省公式ウェブサイトLaman Rasmi Bahagian Residen Bintuluによる
2 2011年8月17日Uma AnyieのWan Imang氏へのインタビューによる。
3 ブンガン教(Adat Bungan)は1950年代よりボルネオ中央部で興隆した、在来信仰にキリスト教的な要素を合わせた改革宗教である。古い慣習により妨げられていた農業効率を上げるために誕生した。これによりアニミズムがより合理的に解釈され、儀礼によってタブーを無視できるようになった(Aichner1956)。一時期カヤン、クニャを中心に信者が多かったが、現在ではキリスト教に改宗する人が多い。
4 上記の注2に同じ
5 2011年8月18日Uma LasahのMering Tuva氏へのインタビューによる。
6 2011年8月26日Penghulu Sanok Magai氏へのインタビューによる。
7 なおこのプゥナンは、一時期プナンとスガンの奴隷を所有していた(Cramb 1979)。
8 実際には「奴隷」という意味でなく、「弟/妹」と呼ばれる(Kedit and Chang 2007)。
9 Bekatan Ngemahはカノウィットに住んでいたが、1945年以降イバンに同化して、今は全くいないという(Sandin 1968)。
10 2011年8月25日Rh. BandaのGaing Ungat氏へのインタビューによる。
11 2011年8月27日Rh. KanyanのKanyan Abok氏へのインタビューによる。
12 2011年8月19日Rh. JusongのSintan Juti氏へのインタビューによる。
13 “The history of Baee Segaan” (2010)による。
14 Nicolaisenによると、プゥナンがパンダンに住み始めたころプゥナンはプナンのことをラバンLaveangと呼んでいた。しかし、これらの人々がマレーやムラナウと混ざり、ムスリムになるにつれてスガアン(Segaan)と呼ぶようになった(Nicolaisen 1976)。
15 2011年8月18日Uma LasahのMering Tuva氏のインタビューによる。
16 2011年8月25日Rh. JalongのDelila Sekudau氏へのインタビューによる。
17 2011年8月25日Rh. JalongのDelila Sekudau氏へのインタビューによる。
18 2011年8月26日タタウ街にてAnyai(Meng Teng Yiew)氏へのインタビューによる。
19 2011年8月23日Rh. MawangのMawang anak Mat氏へのインタビューによる。


参考文献
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