流域社会から陸域社会へ ―ジュラロン川流域陸路走破の記録

流域社会から陸域社会へ―ジュラロン川流域陸路走破の記録
祖田 亮次(大阪市立大学 文学研究科)
石川 登 (京都大学 東南アジア研究所)

1.はじめに
 本科研の社会科学系の調査では、流域社会の人びとの生活とアブラヤシ栽培との関係を現在進行形で記録している。巨大なプランテーションにその生活世界を取り込まれつつある人びと、そしてアブラヤシをみずから栽培することに決めた人びとの生活がどのように変わりつつあるのかを気にしながら、フィールドワークを行っている。
 眼前で進行するさまざまな変化のなかで、人びとの空間的な「動き」とその意味を理解することは重要である。これらの動きは、結婚を契機とした婚出入に加えて、人びとの「労働移動」(出稼ぎ)や都市への「移住」、そしてロングハウス単位の「移転」や世帯ごとに耕作地に建てられる出づくり小屋の「移動」(耕作地移動)など、さまざまな形や単位の空間移動を含んでいる。この10年あまりで進んだ木材産業の衰退、プランテーション経済の浸透、ビントゥルBintulu都市部および港湾部の労働市場の拡大、道路網(舗装路とプランテーション道路)の伸長などは、これらの空間移動と密接に絡み合う要因となっている。
 人びとが移動するにあたっては、個人、世帯、ロングハウスなどさまざまな単位に分けて考える必要がある。それぞれが今いるところから他所に移動する理由も千差万別だ。しかしながら、少なくとも私たちがクムナKemena川やジュラロンJelalong川流域で見聞きする「移動」には、以下のような形を見て取ることが可能である。

a) 若年/壮年層の都市部での就労
b)都市就労者/居住者のアブラヤシ栽培のための定期的帰村
c)ロングハウスの道路沿いへの移転
d)出づくり小屋(ランカオ langkau)の道路沿いへの移動

 最初の2つは、いわゆるurban-rural continuum、すなわち人類学や地理学における「都鄙連続体」といった概念のもとで理解される世帯の空間的エクスパンションに関わるものである。現在、加藤・祖田のアブラヤシ小農調査チームは、都市就労/居住者の仕送りや労働力提供に依拠しながら内陸部で進行する小農的アブラヤシ植栽について興味深い調査を行っている。そこでは、内陸部ロングハウスに居住する親の世代と都市部の子供たちの世代が空間的には離れていてもひとつの世帯経済としてアブラヤシ栽培を進めるケースがみてとれる。
 このような人びとの労働力や資本の移動に加えて、生活空間そのものの移動、すなわちロングハウスや出づくり小屋の「川」沿いから「道」沿いへの移動も最近顕著になっている。今回の私たちの調査は、特にイバン語でランカオlangkauと呼ばれる農作業のための「出づくり小屋」について、その道路沿いへの移動の現状をおさえることを目的として、ジュラロン川最上流のイバン・ロングハウス(ルマ・アバンRh. Aban、ルマ・アワンRh. Awan)までの陸路走破という小さなエクスペディションを行った。以下はその道すがらの見聞記録である。

2.河川から道路へ――ランカオの形態と分布
 ほんの数年前までは、ジュラロン川の上流に車で行くということは、一般の旅行者にとっては、現実的なことではなかった。私たちも、基本的にはボートで移動しながら、川沿いのロングハウスを訪問していた。しかし、多くのロングハウス住民が道路沿いに移動しているという噂を聞き、なかでも、クブルKebuluのルマ・ジュソンRh. Jusongのロングハウスなどは、現状では無人に近いという話に強い関心を持った。
 実際のところ、人々はなぜ道路沿いに移っているのか、ランカオと呼ばれる出作り小屋はどのような分布になっているのか、人々は道路沿いでどのような生業に従事しているのか、ロングハウス・コミュニティはどのように維持されているのか/いないのか、といった関心を持って、道路沿いを動いてみたわけである。
 河川から道路へという移動は、これまでもサラワクの各地でみられた現象ではあるが、近年のジュラロン川流域の動きは、サラワクの景観変化との関係で考察すると、従来と比してやや複雑な背景が見えてくるように思われる。ジュラロン川流域における河川から道路へという動きは何を意味しているのか、旅行しながら考えてみた。

写真1  道路沿いのランカオの諸相 / Photo1: Different types of langkau along roadside

写真1 道路沿いのランカオの諸相 / Photo1: Different types of langkau along roadside


 ランカオの分布をロングハウス・コミュニティ別にみてみると、ベースとなるロングハウスの近くに分布していることがわかる。その形態は、写真でも示しているように、雨風をしのぐだけの簡素なもの(写真1-①)1から、メランティやカポールを使ったしっかりしたもの(写真1-⑨)、もはや出作り小屋というよりは家 rumahと呼ぶべきもの(写真1-⑯)など、多様である。ルマ・ラサッ・トゥバRh. Lasah Tubaの領域では、カヤンKayanと結婚した福州華人の「家」を訪問したが(写真2)、そこは寝室が5つも ある巨大な家で、裏庭にはツバメハウスも建設されていた。
写真2  カヤン村落に婚入した福州華人ア・ピン氏の家 / Photo 2:  The house of a  Fuzhou ethnic Chinese who married to a Kayan and living in Kayan community
 今回の旅行で見られたランカオの分布概要は次の通りである。

陸路移動ルート(凡例は全図に共通) / Land route and the legend of the maps

陸路移動ルート(凡例は全図に共通) / Land route and the legend of the maps

ルマ・ラサッ・トゥバ~ルマ・ジュソン付近のランカオの分布 / Scattered langkau near Rh. Lasah Tuba and Rh. Jusong

ルマ・ラサッ・トゥバ~ルマ・ジュソン付近のランカオの分布 / Scattered langkau near Rh. Lasah Tuba and Rh. Jusong

ルマ・ジュソンおよびルマ・マレック付近のランカオの分布 / Scattered langkau near Rh. Jusong and Rh. Malek

ルマ・ジュソンおよびルマ・マレック付近のランカオの分布 / Scattered langkau near Rh. Jusong and Rh. Malek

ルマ・ウガール~ルマ・アワン付近のランカオの分布 / Scattered langkau near Rh. Ugan and Rh. Awan

ルマ・ウガール~ルマ・アワン付近のランカオの分布 / Scattered langkau near Rh. Ugan and Rh. Awan


 バクン道路Bakun Roadから、未舗装の伐採道路(リンブナン・ヒジャオ道路)に入ってしばらくは、トゥバウ川沿いおよびジュラロン川沿いのカヤンのロングハウスから移動してきたランカオが目立つ。その後、ジュラロン川沿いのプナンやイバンのランカオが分布するようになる。
 図中の赤色のマークで示されたランカオは、クブル川(ジュラロン川支流)中流のルマ・ジュソンのロングハウス出身者のランカオであり、黄色のランカオはクブル川上流のルマ・マレックRh. Malek出身者のランカオである。両者の間のロングハウス領域のおおよその境界はクブル川(左岸はルマ・ジュソン、右岸はルマ・マレック)となっているおり、互いに明瞭な境界意識を持っている。
 図中の桃色、緑色、青色のマークは、それぞれルマ・ウガール、ルマ・マスRh. Mas、ルマ・アワン2の出身者のランカオである。どの村の出身者が作ったランカオなのか分からない場合は、赤色に×のマークを施した。
 今回の観察と聞き取りで得られた具体的なランカオの数字としては、以下のようになる。

◆ルマ・ワン・ウシンRh. Wan Usin(カヤン)のランカオ:9軒
◆ルマ・ラサッ・トゥバRh. Lasah Tuba(カヤン)のランカオ:6軒
◆ルマ・ジュソンRh. Jusong(プナン/イバン)のランカオ:8軒
◆ルマ・マレックRh. Malek(イバン)のランカオ:32軒
◆ルマ・ウガールRh. Ugal(イバン)のランカオ:6軒
◆ルマ・マスRh. Mas(イバン)のランカオ:12軒
◆ルマ・アワンRh. Awan/ルマ・ジュラディンRh. Jedrading               (イバン)のランカオ:5軒
◆不明:7軒

 もちろん、分岐道沿いにも数多くのランカオが存在しているようだし、メインロード沿いでも見落としたランカオがあるかもしれないので、上記の数字は目安でしかないが、おおよその傾向をつかむことはできるだろう。これらのランカオの分布をまとめると、以下のようになる。
a)ルマ・ジュソンやルマ・マレック、ルマ・マスのランカオは、1970年代に伐採会社リンブナン・ヒジャオによって建設された伐採道路(Jalan Rimbunan Hijau)のメインロード沿いに分布している。
b)ルマ・ウガール、ルマ・アワン/ルマ・ジュラディンの領域では、各ロングハウスに向かう分岐道を中心にランカオが分布しており、一部はメインロード沿いに位置している。ルマ・ラサッ・トゥバについても、ロングハウスへの分岐道に多くのランカオが存在しているという(今回はルマ・ラサッ・トゥバへの分岐道には入らなかった)。
c)ルマ・アバンは、ロングハウス自体がメインロード沿いに位置しているためか、ランカオをほとんど作っていない。
 このように、分布そのものだけを見ていると、各ロングハウスとそこから派生したランカオとが近接していることが分かる3。次章では、彼らが道路沿いにランカオを作る意図について、聞き取りから得られた情報を記述する。

3.なぜ道路沿いか―生業・生活の変化
 今回の2泊3日の行程では、ルマ・ワン・ウシン出身者のランカオで1件(写真1-③)、ルマ・ラサッ・トゥバ出身者のランカオで2件、ルマ・ジュソン出身者のランカオで2件、ルマ・マレック出身者のランカオで2件、ルマ・ウガールの村長のランカオ(写真3)で1件の聞き取り調査を行うと同時に、ルマ・アバン(写真4、5)のロングハウスおよびルマ・ジュラディン(写真6、7)のロングハウスでも村人たちから話を聞いた。道中では、ルマ・ジュソンのランカオで1泊(写真1-⑫)、ルマ・アバンのロングハウスで1泊して、詳しい話を聞くことができた。また、ビントゥルに戻ってから、ルマ・マスの村長宅(ビントゥル旧市街から2 km弱の住宅地)を訪ね、そこでも聞き取り調査を行った。
写真3  ルマ・ウガールの村長ウガール氏(左)とロギー氏(右) / Photo 3: The headman of Rh. Ugal, Mr. Ugal (left) and Mr. Logie Seman (right) 写真4  ルマ・アバンの外観 / Photo 4:  Rh. Awan
1)利便性
 道路沿いに移動した多くの人が移動の理由として挙げるのは、河川沿いの交通の困難である。ジェラロン川は水量の季節変化・日変化が激しい。かつては、6月初旬のガワイ(年に一度の収穫祭)の際も、水量が少ないためにロングハウスに帰れなかったことがあったという。逆に、ロングハウスで病人が出た場合でも、水量が足りずに町に行けず、医療サービスを受けられないということもしばしばあったという。
 ただ、道路沿いにランカオを建設した結果として、ロングハウスの常住人口と、都市就労者のロングハウス帰村頻度がさらに減少しているようである。とくに、ルマ・ジュソンは、平日はほぼ無人の状態で、ロングハウスにいるのは「犬と鶏だけ」という。しかし、彼らはロングハウスを完全に放棄したわけではなく、2週間に1回、週末にロングハウスに戻るという。それは、ジュラロン川とクブル川の合流点にある小学校の寄宿舎に子供がいて、月に2回、彼らを迎えに行く必要があるからだという。また、nungkong api4の慣習も残しているため、どの世帯も少なくとも1か月に1回はロングハウスに戻るという。
 一方、ルマ・マレックに関して言えば、全世帯が道路沿いにランカオを作っており、彼らはすでにクブル川沿いのロングハウスを「放棄」したという。現在は、道路沿いに新しいロングハウスを建設中で、河川から道路へと生活の場を完全に移動させようとしている。

写真5  ルマ・アバンでの記念写真 / Photo 5: The residents of Rh. Awan
2)アブラヤシ栽培
 道路沿いにランカオを建設した人の多くは、アブラヤシ栽培を始めている。その多くは、数百本を植えたばかりであるが、一部の人はすでに結実した果房(FFB)を売り始めている。苗で買う人、種で買う人、他人のアブラヤシ園で十分に熟した実を拾ってきて、その種を自分で植える人など、いろいろである。
 車を持っている人は、自分で果房を運び、福州華人ア・チャイAh Chaiの検量所やBLD(Bintulu Lumber Development:ジュラロン川上流域からスアイSuaiにかけて広がっているアブラヤシ・プランテーション)の搾油工場に売りに行っている。近々、サムリンSamlingが近隣に搾油工場を建設する予定で、それが完成すればそちらに売るという人もいる。
 車を持っていない人は、果房を仲買人に売ることになる。仲買人はトゥバウ近くのカヤンが多く、ルマ・ラサ・ムリンRh. Lasah Meringの村長自身がローリートラックで買い取りに来ているという。その場合の運賃は、アブラヤシ果房の売り上げの半分になるという。ただ、他にもローリートラックでの仲買を行っている者もいるようで、3分の1の値段で運搬を引き受けてくれる仲買人もいるという。現在までのところ、この地域での果房販売の量が少ないために、十分な情報はまだ得られていない。
 アブラヤシ栽培は、バクン道路沿いの先住民集落に比べると、相対的に遅れている印象はあるが、それでも今後の重要な収入源として期待されていると感じられた。

3)土地の権利
 ジェラロン川沿いの人々が道路沿いに移動することには、別の理由もある。つまり、プランテーション会社に土地を取られてしまうことを懸念して、自分たちの土地(temuda)の権利を確保・強化しようとしているという。
 ルマ・ウガールやルマ・アバンでは、我々の訪問に懐疑的な目を向ける人たちもいた。それだけ、道路沿いの「土地問題」は、河川沿いよりも敏感なものになりつつあるとの印象を受けた。もっと言えば、かつて行われていた商業的木材伐採と違って、現在リンブナン・ヒジャオが行っているアカシア・プランテーションや、サムリンが行っているアブラヤシ・プランテーションは、先住民に「土地問題」を強く意識させるものになっている。
 元森林局のロギー氏の話では、商業的木材伐採のころは、ローリートラックの交通量が多く砂埃が激しいために、普通の人は道路沿いに住みたいとは思わなかったし、当時は先住民が「森林」劣化の問題に言及することはあっても、「土地」そのものが取られることを心配したり、土地所有権を主張したりすることはほとんどなかったという。しかし、商業的木材伐採が終了し、そこにプランテーションがやってくるようになった。プランテーションは、これまでの「うわもの」を選択的に採るという行為ではなく、土地そのものに投資をし、その投資分を回収することで収益を得る。そのため、土地の囲い込みという経済的行為が不可欠となる。
 ジュラロン川沿いの多くの先住民は、自分たちの居住区域における問題が、従来の「資源争奪」ではなく、サラワク各地で起こっている新たな「土地闘争」へと遷移しつつあることを強く意識し、ここ数年、道路沿いへの移動を加速させているということが容易に推測できる。
 特に、土地の権利主張のあり方として、ルマ・マスの事例は興味深い。ルマ・マスの人々は、1950年代末にルボック・アントゥLubok Antuからジュラロン川上流に移住してきた。しかし、その十数年後にはジュラロンの地を放棄して、下流のトゥバウに降りてきて、カヤンから土地を購入し、トゥバウ川沿いにロングハウスを建設した。現在、トゥバウ川沿いのロングハウスでは、古老を中心に稲作を行っている世帯もあるが、ロングハウスに残る若者は少なく、多くはビントゥルに家を持ち、賃金労働に従事している。その一方で、かつてジュラロン川上流で稲作のために開いた道路沿いの焼畑休閑地で、数年前からランカオを作ってアブラヤシを植え始めている。数十年前にジュラロン川上流の土地を放棄したかに見えるロングハウス・コミュニティが、ビントゥルという都市をベースにしつつ、トゥバウ川沿いのロングハウスも村落として維持しながら、なおかつ1960年代の居住地であったジュラロン川上流でアブラヤシ栽培という土地投資型の経済活動を展開している。このことは、サラワク先住民の多処居住(multiple residence)のあり方や、土地の権利主張形態の新しい展開として非常に興味深い事例である。今後も引き続き調査を行っていきたいと考えている。

写真6  ルマ・ジュラディンの外観 / Photo 6: Rh. Jedrading
4.おわりに
 ジュラロン川流域をいつものようにボートで移動するのではなく、4WD車輌で移動したことにより、いままで私たちが流域社会として理解してきたものとは異なるランドスケープを観ることが可能となった。今回私たちが目にすることができた流域社会の変化は以下のようにまとめることが可能である。
1)河川上流域の流域社会から陸域社会への変化
 クムナ/ジュラロン川流域では、多くの民族集団によりロングハウスを中心とした流域社会が形成されてきた。その生活は河川流域を中心に営まれ、「川」は人びとをつなぐ最も重要なチャンネルとなってきた。その昔、ブルネイのマレー商人は複数の水系を繋ぎながら川を遡上してプナンの人びとと交易し、1960年代以降の木材伐採の時代には、川は大量の丸太を下流に送り、内陸に莫大な富をもたらした。
 森林から得られる資源の抽出、具体的には、非木材森林産物採集と木材伐採(河畔林伐採)とそれらの交易において、川は人びとの活動の基盤となってきた。しかしながら、頻繁な現地調査で私たちは、流域社会における生存基盤が陸域に移りはじめていることを感じている。ビントゥルとバクンを結ぶ幹線道路に加えて、毛細血管のように内陸を走る伐採道路、そして近年のアブラヤシ・プランテーション内外の道路ネットワークの伸長にあわせて、ロングハウスに駐車されているトヨタ・ハイラックスやプロトン、ペロドアなどの車輌数は増えるばかりである。
 伝統的な森林産物や木材と比べてアブラヤシが決定的に異なるのは、それが原義的に「道」を必要とすることである。酸化に抗して24時間以内に収穫物をプロセスしなければいけないという化学的な要請は、社会的なネットワークをも大きく変える。アブラヤシの小農生産の成立基盤が搾油工場へのアブラヤシ搬入のための道路の存在にあり、地域経済が木材からアブラヤシへ急速に転換しつつある現在、私たちは流域社会の「陸化」、すなわちriverineからterrestrial への大きな社会編成の変化のはじまりを目にしているのかもしれない。
2)人びとの適応プロセスとしての「陸化」
 すでに記したように、現在のジュラロン川流域で起きていることは、従来の「資源争奪」ではなく、ある種の「土地闘争」とでも呼ぶべきものである。木材伐採の時代に収奪の対象とされたのは、人びとの生活世界の「うわもの」、すなわち再生可能なバイオマスであった。これに対して、現在のプランテーション開発で人びとの生活世界から奪われようとしているのは「土地」であり、その上で産出されるさまざまな森林資源も、現状では半永久的に失われることになる。
 このようなプランテーション経済(あるいはプランテーション・ポリティクス)の浸透に対して、人びとは伐採時代に行なった道路封鎖などではなく、道路沿いへの出づくり小屋(ランカオ)の建設、そしてその周辺での焼畑およびアブラヤシ植栽という実効的土地占有行為を通して、土地に対する権利主張、すなわち土地の占有/利用権を確保し、さらには所有権を確立していくという腹積もりのようである。
 土地の権利関係については、近年のプリミータ・サーベイ5の動きとも関連して、非常に敏感な問題として、先住民社会のなかで強く意識されつつある。
写真7  ルマ・ジュラディンの廊下(建設途中) / Photo 7: Communal space of Rh. Jedrading (under construction)
3)今後の課題
 以上、道路とランカオに焦点を当てて行った調査旅行を紹介した。今後の課題としては、次のことが挙げられる。
 a)ランカオに移り住み、森を拓く人びとの土地権利主張の根拠は何なのか。いくつかのコミュニティは、ジュラロン川流域に移住した際に、行政官District Officerやプナンの首長と交わした文書や地図を保持している。そこに描かれた村の領域 pemakai menoaと、近年の開発過程における土地権利主張が 、どの程度整合性を持ちうるのかについては、より精緻な調査が必要である。
 b)都市、ロングハウス、ランカオを行き来する「多処居住」形態を、先住民の適応プロセスの一局面、すなわち急激な生活環境の変化に抗する(あるいは順応する)戦略として位置づけ、考察する必要がある。従来の農村-都市移動、河川-道路移動と何が違うのかを、あらためて問い直す必要があるだろう。
 c)トゥバウより下流のエンカスEngkasu、ラサンRasan、ムキンMukingといった地域では、すでに数年~十数年先行して、バクン道路沿いへの移動を経験しており、アブラヤシ栽培についても先進的である。それらの地域との比較も必要になるであろう。「小農化」のプロセスに関わる時間差/地域差のバリエーションについても目を向けておくべきであろう。
 d)これらの生活・生業の変化と、植生やランドスケープの変化が、どのような相関/対応関係にあるのか/ないのか、についても調査する必要がある。これは、アブラヤシ栽培が可逆的な商品作物の導入なのか、不可逆的な生業・生活変化なのか、という問題とも深く関係する。
 ここ数年だけを見ても、ジュラロン川沿いのロングハウスや集落の居住率が低くなり、訪問する側としては寂しさや虚しさを禁じ得ない状況であった。しかしそれは、必ずしも村落コミュニティの崩壊というわけではなく、「流域」から「陸域」への変化過程の一部と考えるべきかもしれない。その過程において、政治や経済や民族や生態といった要素が複雑に絡み合いながら、それらとの関係で人々の移動戦略が練り上げられていく。これらの変化を「流域社会」から「陸域社会」への「移行」あるいは「置換」とみるべきか、より広い意味での「流域社会」の再編成と捉えるべきか、それを判断するには、彼らの生活の「陸化」過程と都市化過程をより詳細に見て行くことが必要になると思われる。

脚注
1 イバン語ではlangkau jungapと呼んだりもする。sagoやlilik、biru等の葉を使用したものが多い。
2 2011年3月の火事の後、ルマ・アワン(5戸)とルマ・ジュラディン(20戸)に分裂した。
3 ルマ・マスはトゥバオ川沿いに位置しており、例外といえるが、これについては3章3)節で詳述する。
4 普段はロングハウスの部屋を留守にしていても、月に一度は台所で火を使わなければならないというイバンの慣習で、この規則に従えない場合は、ペナルティを支払うことになる。
 ルマ・ジュソンはもともとプナンの集落ではあるが、このようにイバンの慣習も取り入れている。
5 プリミータ・サーベイは2010年にサラワク州政府によって提示された、内陸先住民地域における土地測量・登記の新しい考え方である。この測量・登記のあり方について、まだ詳細不明の部分が多い。
 州政府は、内陸先住民の土地権を保証するための新しいコンセプトであることを強調しているが、内陸先住民の社会では懐疑的な受け止め方をしている場合が多いようである。


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